□はじまりのベル□


「ひーちゃん・・・ちょっと・・・タイム・・・。」
そう言った京一に従って電車を降りたのは、かれこれ30分以上は前だったろうか・・・

全く予定に入っていなかった途中下車。見たこともない景色に、ロクに聞き覚えのない駅名…
ほろ酔い気分の龍麻と、完全に酔っ払ってしまっている京一を迎え入れたのは、随分とさびれた感じのする私鉄の駅であった。
ぐるりと見渡す視界には、人の姿など見当たらない。

もっとも終電間際なので、それも無理のない話ではあるのだけれど…

「京一、大丈夫か?」
ベンチの上にぐったりと横たわる京一に向かって、龍麻は声をかけた。
「う・・・ん・・・。」
答える代わりに、吐息のような声が漏れる。
「まったく… 調子に乗りすぎだ、お前は。」
呆れ顔で見下ろせば、
「何で、お前は・・・そんなに涼しそ〜な顔してやがんだよッ・・・。」
すかさず、抗議の瞳。
「ちゃんとセーブしてたからな。」
「・・・俺より飲んでたじゃねェか・・・。」
はいはい。
拗ねたような視線で異議を唱える京一を、龍麻は慣れた様子で軽くあしらった。

− 今日、飲みに行こ〜ぜっ♪

嬉々として誘ったのは、京一の方。

− お前がへろへろに酔っ払ったトコロ、拝ませてもらうぜっっ!

そう叫んだのも京一の方。

龍麻の顔に、心底楽しそうな微笑(えみ)が浮かぶ。

「俺に勝負を挑むなんざ、一億年早ェぜ。」

う〜… ちくしょぉっ。
口惜しいけれど、思うように体が動かない。
「底なし・・・め。」
くそっ・・・。
・・・何でひーちゃん(コイツ)は、こんなにピンピン・・・してンだッ・・・?
断続的に襲い来る目眩に寝返りを打つと、青いプラスチック製のベンチが、キイキイと耳障りな音を立てた。
「今度は・・・負けねェから・・・な・・・ッ」
ギシッ。
人気の無いホームに響く、椅子の軋む、乾いた音。
かなり不本意なのだが、それは敗北宣言。

今回は、油断しただけだ。
一緒に飲みに行くのは初めてで・・・
コイツがこんなに酒が強いだなんて、予想外だっただけだぜ・・・ッ!!

「いいか・・・? 勝ち逃げは、許さねェぞ・・・ッ!」

勝ち逃げって・・・

一瞬、きょとんとする。そして、小さくため息、ひとつ。

やれやれ。
まったく、負けず嫌いなんだから。

・・・まぁ、そこが可愛いんだけどな・・・

「いつでも受けて立つぜ。」

くしゃっ。

子供にそうする様に、優しく、そして無造作に、京一の前髪をかき回した。

柔らかい髪が、指に絡まる。
髪をくしゃくしゃにされて龍麻を睨む上目遣いの瞳に、どうしようもない程の愛しさがこみ上げてくる。

僅かな力が、指に加わる。
微かな想いが、指先からこぼれる。
多分、誰にも気づかれないくらい、それは、さり気ない空気だけれど。
ずっと抑えて、でもこぼれ落ちてしまう…気持ちの欠片。

「ガキ扱いすんなってばッ・・・!」
拗ねたような口調に、
「はいはい。」
分かってるって。
言いながらも、まだ優しく髪を撫で続ける。

でも、本当の気持ちは、京一には、わからないように。
『親友』だから
絶対に、わからない、ように…

龍麻を睨む、京一の瞳。
子供っぽい、無邪気な悔しさを、ストレートに映す瞳。

くっそ〜っ!
俺の計画では、今頃へろへろになっているのは、ひーちゃんのはずだったのにっ!

言葉に出さなくても伝わってくる、単純で愛おしい心に、知らず笑みがこぼれる。

睨まれた当の本人は、何食わぬ顔をして、面白そうに京一のことを見つめた。
その瞳と口元に薄く笑みを刷いて、何もかもを達観しきった様な、余裕の表情。
無敵のポーカーフェイス。

向けられた笑顔に、京一は不満そうに唇を尖らす。

これじゃぁ、いつもと全ッ然、変わらねェぜッ!

勝てない、適わない、歯が立たない・・・ ポーカーフェイス。

う〜〜〜っ。

ひとりごちる。

今日こそは崩してやろうと思ったのにッ!!
・・・逆に足元をすくわれて、この体たらくたぁ、情けねェ・・・。

「ん? どうした、京一?」

憎らしいほどに整った表情(かお)。

思いっきり、コイツが動揺するところを見てみたいッ!!!
思わず握りこぶしで叫んでしまいそうになる。

酔っぱらっててへろへろになったところとか・・・
とんでもないドジ踏んで、真っ青になったところとか・・・
夜も眠れないくらいに悔しがってるところとか・・・

う〜ん・・・

思いつきをイメージの中でヴィジュアル化して、ちょっと考える。

・・・いや、そんなんじゃないな・・・

俺が見たいのは・・・
知りたいのは・・・

軽く首を振り、思考を止める。

こんな達観しちまった表情(かお)じゃなくて・・・

目を、閉じる。

もっと怒ったり、笑ったり・・・
照れ笑いなんて、見てみたいよな…

もう一度、龍麻を見つめる。

辛い時は…
俺の前でだけは、泣いて欲しい…

もっと色ンな顔が、見てみたい…

拗ねた顔、柔らかい笑顔、激しい表情(かお)…

もっと色ンなお前が見たい…

・・・俺だけに、見せて欲しい・・・

俺だけに…

かたん。
不意に、不安定な椅子が揺れた。

…ッ!

途端に、思考が現実に引き戻される。

…う…ッ…
…い…言えるわけねェっ!!!
そんな女みてェな台詞ッ!!

今までの思考の流れが、急にリアルな羞恥を運び込む。
慌てて首を振るが、自覚する間もなく、酔いのせいではない赤味が頬を覆う。

だ・・・大体、アイツが誰かれ構わず、同じ様な表情(かお)してへらへら笑ってんのがいけねェんだからなッ・・・!!

いつもいつもいつもいつも…涼しい顔して、顔色一つ変えねぇッ!

慌てて見えない誰かに向かって弁解する。

だから…ッ

しかし、その胸を、また、物思いの影が捕らえた。
わずかな『寂しさ』という名の影…

だから・・・

気づかれないように、そっと龍麻を見つめた。

だから、今回、ちょっとした計画を思いついたんだ。
酒にはちょっとばかし自信があったから・・・

酔わせてみたら、もっと色ンなアイツが見れるかな・・・って。

・・・俺しか知らねェアイツが・・・増えるかなって・・・

ギシッ。
椅子が、嫌な音を、立てる。

アイツが転校してきた時から、なんとなくウマがあって。
一緒につるむようになって、もっと惹かれて。
側にいると楽しくて。
わけもなく気持ちが弾んで。
気がついたら『親友』なんてヤツになってた・・・

距離が縮まって、もっと惹かれて。
もっと、ずっと、知りたくなって・・・
いつも、見ていた。

そしたら、
他のヤツに向ける笑顔。
俺に向ける笑顔。
2つの違いが見つけられなくなって。

わけもなく、切なくなって。
わけもなく、苦しくなって・・・

誰にどんな顔してようが、
俺にどんな顔してようが、
アイツにとっちゃ・・・
・・・余計なお世話かも、しれねェケド、な・・・

アルコールのせいで、思考が熱っぽい。
もやもやした嫌な気分は、きっと悪酔いしたせいだ。

それでも、考えてしまう。

ずっと気になっていた、コト。
ずっと知りたかった、コト。

今でも気になっている、コト…

ひーちゃんは…

アイツは…
惚れたヤツには…どんな表情(かお)を見せるんだろう…

目が、まわる。

アイツが惚れたヤツ・・・
いつか、必ず、そんな日が来る。

頭の中が、すっきりしねェ・・・
俺、こんなに酒、弱かったっけな・・・

アイツが惚れるヤツ…
いつも、隣で笑いかける、ヤツ…

現在(いま)が壊れる、そんな日が、来る。

いつも、お前の隣に・・・いてェな・・・
ずっと、側にいて欲しい・・・

『いつか』・・・なんて、来て欲しく…ねェ…

目が回る。
思考の果てに、浮かぶ言葉。
目眩の合間に、揺れるフレーズ。
それは、いつか聞いた歌の文句にも似た、気持ち。

離したく、ない。
離れたく、ない。

俺を・・・お前の・・・

− オレヲ、オマエノ・・・

ぼんっ!!!
「お・・・おいっ! 熱でもあるのか?! 京一ッ!!!?」

突然、京一の顔が、耳の先まで真っ赤に染まった。

お・・・俺は、なんてェコトを〜〜〜っっっ!!!

龍麻は慌ててしゃがみ込む。
「ど・・・どうしたんだッ!? イキナリッ!!」
うわっ!! 至近距離っ!!
「い・・・いや、何でもねェ。 だ・・・大丈夫だよ、ひーちゃん・・・ッ!!」
「何言ってんだッ! 真っ赤じゃねェかッ!」
ふらつく体で逃げようとする京一の腕を掴む、龍麻。力では龍麻の方が上だ。
「い・・・いいからッ・・・!」
手が振り解けずに、動揺して鼓動が激しくなる。
「おいっ!! 大人しくしろってッ!!」
「は・・・離せッ!!」
顔がどんどん赤くなる。
「く・・・来るな〜〜〜っ!!」
思わず叫んだその時、

ピタ。

し・・・しまったぁ〜〜〜ッ!!!!!

龍麻の動きが止まった。

ヤバイッ!!
京一の顔が、今度は青くなる。

「あ・・・あの・・・ひーちゃんッ!!」
「・・・。」
するり。
あっけないほど簡単に解ける、手首の戒め。
「お・・・俺、その・・・そんなつもりで・・・。」
「・・・。」
ふいっと後ろを向いてしまう。
「ち・・・違うってッ!」
そんなつもりじゃねェんだって!!
「俺は・・・その・・・ちょっとびっくりして・・・。」
「・・・。」
後ろ向きのまま、龍麻の肩が微かに震える。
「その・・・急に目の前に・・・なんだ、お前の顔があったから・・・びっくりしちまって・・・な?」
ヤバイッ!! マジでヤバイッ!!
「別にひーちゃんがどーのとかって話じゃなくて・・・!!」
「・・・っ。」
龍麻の肩が、先刻よりもはっきりと震えている。
「・・・え?」
「・・・くっくっ。」

−!!!!!

わ・・・笑ってるッ?! もしかして・・・ッ!
ちょっと待て・・・ッ!!!

「ひ〜ちゃ〜んっっっ!!!」
「あっはっはっは。 悪ィ、京一ッ。」
龍麻は、堪えられない、といった様子で笑いながら振り返った。心底楽しそうな、悪戯っぽい口調。
「お前があんまり必死だったからさ。」
ば・・・バカ言えッ!!
途端に、また、耳まで真っ赤に染まってしまう。
「お・・俺ァなあ、本気で・・・」
「本気で、何だ?」
「う゛ッ・・・。」
真顔で問われて、一瞬、怯む。

本気で・・・ 嫌われたと思った・・・なんて、言えるかッ!!!!!

「 な・・・何でもねェよッ!!」
今度は京一の方が不貞腐れてそっぽを向いてしまった。
追い討ちをかけるかのような龍麻の微笑みが、その上を柔らかく覆う。

まったく、京一のヤツ・・・ どうしてくれよう?

素直すぎる反応。

抱き締めたい・・・
照れた京一の顔に、甘い衝動が抑えられなくなってくる。
キスしたい・・・
体中に染み渡ったアルコールが、どうやら、理性の掛け金を緩めているらしい。

「京一、俺に惚れたな?」
頬に吐息がかかる程に顔を寄せて囁けば、
「な・・・おま…ッ!! なな…なんてェコト、言いやがるッ・・・!!!」
あまりにもストレートな反応。

こぼれる微笑(えみ)が、止まらない。
気持ちが無限に、やわらいでいく。

お前、知らないだろう?
俺は、お前の前でしか、こんな風には微笑(わら)えない・・・

お前、気づいてないだろう?
こんな風に微笑(わら)ったの・・・生まれて初めてなんだぜ・・・

もう少し、見ていたい。
照れたお前の顔を・・・
真っ直ぐで、正直すぎて、嘘なんか全然つけないようなお前だから。
素直に嬉しくなっちまう。

どんな理由でもいい。
お前が俺を好きでいてくれる。
それだけで、気持ちが和らかくなれる。

− 俺に、惚れたな?

YES。
そんな言葉が、ひょっとしたら・・・

バカな期待を、楽しみたい。
甘い期待。
淡い夢。
儚い、願い。

もう少し。
もう少し、だけ・・・

無限に続けばいい。
今、この時が…

「お・・・俺ァなぁ・・・。」
京一はしどろもどろの弁解を繰り返す。
その姿が愛おしくてたまらない。

「そ…そう。風邪だ、風邪ッ! それでちょっと顔が赤かっただけなんだよッ!」
「ふむふむ。」
みえみえの弁解に、明らかに適当に相槌を打つ。
「聞いてんのかッ?! ひーちゃんッ!」
「聞いてるぞ。しっかりな。」
「何で笑ってんだよッ!」
「ふふん。」
全然信用していない、といった龍麻の目にムキになる。
「おい、俺は、風邪でだな…ッ」
「はいはい。」
「ひーちゃん…ッ!」
「OK、OK。」

ふわり。

え?!

ばさっ!
「うわっ?!」
不意に、黒いものが京一の視界いっぱいに広がり、体の上に覆い被さった。
「な・・・?」
照れた表情(かお)は姿を消す。
かわりに、猫のように見開かれた瞳。
びっくりして首をわずかに持ち上げた京一は、慌てて自分の上の物体に目をやった。

コ・・・コート?

数瞬後、視線が捉えたのは、一着のコート。
つい今し方まで龍麻が着ていた黒いロングコートが、自分の上に無造作に被せられている。
まだその内側に、主の温もりをはっきりと宿して・・・
「ひーちゃん?」
見上げた視線の先で、コートの持ち主は涼しげな横顔のまま、京一のことを見つめていた。
「これ・・・。」
「いいから、かけてろ。」
微かに、含み笑い。
「そんなトコで寝てるんだから、ホントに、風邪ひいちまうぜ。」
でも、限りなく優しい微笑。
「う…。」
完全に、京一の、負け。
でも、不思議と悔しくはない。
「でも、それじゃぁ、お前が寒いだろうが・・・ッ。」
言いながら、確かに鋭い夜気が手足の感覚を奪っていっていることに気がついた。
「コート脱いじまったら、ひーちゃんこそ風邪ひいちまうぜッ。」
慌てて返そうとするが、やんわりと龍麻はそれを拒絶する。
「・・・まだ、動けねェんだろ?」
う゛っ・・・。
「ちゃんと、かけてろ。・・・俺は、平気だから。」
ほら。
人差し指で、軽く京一の額を押す。
「後10分もすれば終電が来るさ。そうしたら、嫌でもひっぺがしてやるよ。」

冷え込んだ真夜中の駅のホーム。
寒くないわけが、ない。
それでも笑って自分をからかう龍麻に、京一は何も言えない。

ふと、頭を過ぎる。

こんな表情(かお)・・・ひょっとしたら、俺だけが知ってるのかな・・・

そして、軽く頭を振る。

ちょっと自惚れが過ぎるか・・・

「・・・サンキュ・・・」

ぶっきらぼうに呟くと、まだ温かさの残るコートで、冷えた体を包んだ。

「・・・ごめんな、ひーちゃん・・・。」
「バーカ。何、殊勝な顔してんだよ。」

あたたかなコート。
まるで、龍麻自身に抱き締められていると錯覚してしまいそうな・・・。

不意に込み上げる、切なさ。

いつか、誰かがこの温もりを手に入れる・・・

そう思って、
きつく目を閉じる。

消せない、やるせなさ。
制御不能の感情。

いつか、誰かが・・・
アイツが惚れた、誰かが・・・

俺じゃない、誰かが・・・

さらにきつく、目を閉じる。

目眩が激しくなる。
耐え難い想像が、ヴィジュアルを伴って脳裏に映し出される。
体を・・・心を支配するアルコールの酔いが、思考をめちゃくちゃに乱す。

− オレジャナイ、ダレカ・・・

− オレジャ、ナイ・・・

俺は・・・
・・・俺は・・・

・・・嫌だッ!

ガバッ!
突如、京一が勢いよく跳ね起きた。
「京一ッ?!」
「ひーちゃ・・・ うっ・・・!」
激しい動きに、一気に酔いが回る。
平衡感覚を失い、椅子から崩れ落ちそうになる。
「バカ! 何やってんだッ?!」
どさっ。
慌てて抱き止める龍麻。

京一の体の重みが、リアルに龍麻の体に伝わる。
首筋に感じる、熱い吐息。

束の間、時が止まる。

「ご・・・ごめんっ! ひーちゃ・・・」
何とか体制を立て直そうとする京一だが、全身を支配するアルコールがそれを許さない。
「うわッ?!」
ガタンッ!
「お・・・おいッ?!」
粗末なベンチが、大きく傾いて、
「京一・・・ッ!」
「ひーちゃん・・ッ!」
思わず、しがみつく。
「大丈夫かッ?!」
慌てて背中に腕を回し、引き寄せるように腕の中へと導く龍麻。
重力に対して抵抗らしい抵抗もできないまま、あっけなくその腕の中に転がり込んでしまう京一。
バランスをとるために反射的に龍麻の首にしがみついてしまえば、先刻よりも、よりきつく抱き合う形になってしまうのであった。

冷たい頬が触れあって、わずかな温もりを伝えあう。
乱れた吐息が、互いの耳朶をくすぐる。

慌てて体を起こそうとする京一。
ふらつく頭でなんとか体勢を立て直そうとしていると、

「もういいから、じっとしてろ。」

手にした温もりを手放せずに、思わず龍麻は、そう囁いていたのだった。

アルコールの残り香が、冬の鋭い空気の中に、気だるげな空間を作り出す。

京一を抱き締める腕に、徐々に力が入っていくのが分かる。

このままだと、まずい・・・

理性が行動に、警鐘を鳴らす。
高鳴る鼓動が、己を諌める。

でも、
・・・止められない。

この腕を、離したく、ない。

酔いのために脱力した京一の体の重みは、甘やかな欲望を掻き立てる。
「…う…んっ・・・」
耳朶をくすぐる微かなため息に、うすっぺらい理性が引き裂かれていく。
呼吸が荒くなるのが、自分でも分かる。
懸命に平静さを装ってはいても、限界が近いことを感じずにはいられない。
京一…
胸の中で、名前を呼び続ける。

ひーちゃん…
自分を抱く龍麻の腕に、微かに力が篭っていくのを感じる度、
どきん。
心臓が、跳ね上がった。

耐え切れなくなって、声を漏らす。

「ひーちゃん…」

それは、きっかけに変わる。

「話しかけんじゃねェぞ…京一…」

微かに震える、声。

言っちゃダメだ、と引き止める声が聞こえる。
それでも、言葉は溢れてくる・・・

このままだと・・・俺は・・・

わずかに酒気を帯びた吐息が、驚くほど近くで不規則なリズムを刻む。

俺は・・・お前を・・・

「…お前を、襲っちまいそうだ…」

耳元でそっと囁いた。

お前を・・・抱きたい。

もう、後には戻れない。

強く、京一を抱き締める。
拒絶を恐れるかのように、力を込めて・・・
京一の体の動きで、気持ちを探ろうとする・・・
どうか、このまま腕の中にいてくれ…

もう、戻れない。
もう、引き返せない・・・

「お前が、好きだ…」

自分でも驚くほどの艶を含んだ声。
熱っぽい響きに、翻弄される。

「お前が欲しく・・・なっちまう・・・」

「ひーちゃん・・・?!」

どくん。
ひとつ、激しい、鼓動。

今・・・何て・・・?

言葉の意味が、分からない。
思考が、瞬間、停止する。

− お前が、欲しい

リフレインする言葉に重なる、自分を抱(いだ)く腕(かいな)。
微かに震える指。

先刻、激しい羞恥を覚えた言葉が、記憶の淵から現れる。

− 俺を、お前の・・・

この目眩は、酔いのせいじゃ、ない。

− オレヲ、オマエノ・・・

わずかに体を離して、龍麻の瞳を見つめる。

「ひーちゃ・・・ん・・・」
「京一・・・」

自分を見つめる龍麻の瞳。
見たこともないほど真剣で、熱い。

− もっと、色ンなアイツが見たい
− 俺にだけ、見せて欲しい・・・

誰にも見せたことのない、表情(いろ)。
他のヤツは、決して見たことのない龍麻(アイツ)、。

甘く、激しく、切ない視線。
心の内を溶かしていくような、
切なさに胸が焼かれるような・・・

− アイツは・・・ 惚れたヤツには、どんな表情(かお)を見せるんだろう・・・?

繰り返される問いは、頬を嬲る吐息と重なる。

ずっと、側にいて欲しい・・・
ずっと、隣にいたい・・・

− 京一・・・お前が、欲しい
― お前が、好きだ…

俺も…
ひーちゃん・・・

俺もだ…

胸が、つまる。

側にいたい。
側にいて、欲しい…

お前の隣に、いたい。

言葉が想いを運んでいく。

「俺を…お前の…」
先刻、飲み込んだ言葉。

「俺を…お前のものに…してくれ…」

瞬間、羞恥に顔が染まった。

「お前のものに、なりたい・・・」

耐え切れずに視線を外して呟く。
かすれる声。

永遠に、お前だけのものにしてくれ・・・

ずっと、お前と、いたい。

上気した頬。
乱れた襟元から覗く滑らかな肌は、恥じらいを反映(うつ)して朱に染まる。

「きょう・・・い・・・ち・・・」

腕の中、俯きながらの告白に、震える指で京一の頬に触れる、龍麻。

− お前のものにしてくれ・・・ひーちゃん・・・

唇を噛んで俯いたままの京一。

「お前・・・自分で何言って・・・」
「・・・わかってる・・・ッ・・・」
冗談でも…酔いの勢いでも、ない…!

龍麻の腕の中、微かに強張る身体。

わかってる・・・

お前が、好きなんだ。ひーちゃん…

頬に触れた指が、微かな震えを伝えてくる。
京一の体温を感じると、龍麻はゆっくりと、その頬を指でなぞっていった。

頬を撫でる指は、やがてゆっくりと唇をなぞっていく・・・

手のひらに残る、柔らかい感触。

くすぐったくて。
愛おしくて。

・・・俺の・・・もの・・・に・・・?

俯いた横顔に無言で問いかける。

唇が触れるほどに近く顔を寄せ、囁く。

「・・・いいのか?」

こくり。

柔らかな茶色の髪が、揺れた。

京一・・・

抑えていた心が溢れ出す。

顎に手をかけて、静かに上向かせて。

― お前が、欲しい
― お前を、抱きたい

何度そう思って眠れない夜を過ごしたか…

覚悟を決めたように瞼を閉じる京一。
微かに震える、唇。

愛してる・・・

切なさに、指が、震える。

愛してる…

そっと唇を開かせ、静かに口吻ける。

軽く、何度もついばむように…
深く、魂(こころ)が交わるように…

無意識のうちに後ずさる身体。逃がさないよう、髪に手を差し入れて、きつく抱き止める。
自らの唇を押しつけ、より深く口吻ける…

「ひー…ちゃ…ん…っ」

切なげにこぼれる自分の名に、胸が締めつけられていく…
京一・・・
応えるように、腕に力をこめる・・・

…と、その時だった。

― …………ホームに、電車がまいります。

「…!!」

突如、響き渡るアナウンス。

― 2番ホームに、電車がまいります。白線の内側までお下がりください。

最終電車の到来を告げる、機械的な声。
いきなり引き戻される、現実の空間。

タイム・オーバーだ…。
思わず龍麻は天を仰いだ。

甘い雰囲気を容赦なく切り裂いて響く、無機質な声。

「ひーちゃん…」

思わず京一の肩口に顔を埋(うず)めてしまう。

徐々に、周囲の空気の冷たさが肌に戻ってくる。

無粋な邪魔者の後の、しばしの沈黙。

「ひーちゃん…」
「京一…」

思わず見つめあう、2人・・・

・・・しかし、脱力の一瞬が通り過ぎると、何故だか温かい空気が2人の周囲を取り巻いていくのを感じるのだった。

やがて、ゆっくりと体を離した2人は、どちらからともなく、微笑みを交わす。

「立てるか? 京一。」
「…ん。」

静かに差し伸べられる手。

躊躇うことなくその手に掴まれば、ゆっくりと体が引き上げられていく。
心も・・・なんだか、浮きたっていく・・・

まだ足がふらつくけれど、大したコトじゃない。

今は・・・
支えてくれる、優しい腕があるから…

「今日、ウチに来いよ…」

少し照れた、表情(かお)。
きっと、自分でも戸惑っている、表情(かお)。
初めて見る、龍麻。

「押しかけてくぜ。」

答える声にかぶさるように、ホームにゆっくりと最終電車が滑り込んで来た。

程なく響く、発車のベル。
最後を告げる、ベル。

「行こうぜ、ひーちゃんッ。」
「ああ。」

だけど、これは始まりのベル。

ここからはじまる2人のための…
ここからはじまる永遠のための…

はじまりのベルが、ホームに鳴り響いていた。


◆戻る◆