■悲恋■ |
誰もいない職員室でワタシはコーヒーを淹れた。 美味しいとは思えないそれを飲んでいると、ドアが開く音が聴こえた。 「マリア先生」 続けてワタシを呼ぶ声がする。その声が誰のものかは振り向かなくても分かった。 「アラ、龍麻クン……」 ワタシのクラスの龍麻クンがそこには立っていた。 黄龍の器としての宿星を持った少年。ワタシの思った通り、彼はこの真神学園にやって来た。 「どうしたの? 授業で分からない所でもあった?」 ワタシは今嬉しい気持ちになっているの? 龍麻クンが来たことがそんなに嬉しいの? 「えっと、ここはどう訳すんですか?」 彼の差し出した教科書を受け取ると、彼はある一文を指さした。 「I hope time will take the edge off her sorrow.」 ワタシは声に出して読んでみた。 「take the edge offがどう訳していいのか分かんないんです」 「フフ、これはね、力をそぐという意味よ。これはsorrowにかかるから、和らぐと訳すのがイイわね」 龍麻クンは理解が行った様子で、ワタシにお礼を言ってくれた。 「お礼なんていいのよ、龍麻クン。ワタシは教師ですもの」 この子の血を手に入れるためにワタシはここへ来た。こうして教師としての生活を続けていると、それを忘れそうになってしまう。 「ねェ、龍麻クン」 帰ろうとする龍麻クンをワタシは呼び止めていた。 「龍麻クンは…… ワタシのこと、どう思ってるの?」 「どう思うって…… マリア先生は美人だし、優しいし…… 俺は好きですよ、マリア先生のこと」 少し困った顔をしたけれど、龍麻クンはすぐに笑ってそう言った。 「……ごめんなさいね、変なこと訊いて。でも、アナタは本当に優しいわね」 龍麻クンの心遣いは嬉しかったけれど、本当はそんなことが聴きたかったんじゃない。 ワタシがもう行っていいわ、と告げるとそれに反応したようにドアが開いた。 「あッ、ひーちゃん、質問終わった?」 ドアの隙間から顔をのぞかせたのは桜井サンだった。きっと廊下には美里サンや蓬莱寺クン、醍醐クンもいるのだろう。《力》に目覚めたあの五人はいつでも一緒にいる。 何故か羨ましかった。いえ、理由は分かっているわ。けどそれはワタシの目的を阻害するものでしかない。 「終わったよ。待たせて悪かったね」 「イイよ、そんなこと。それより早くラーメン食べに行こ、ね?」 二人は楽しそうに話していた。ワタシにも経験がある。いつでも一緒にいられたら、それはとても素晴らしいわ。そう、いつでも…… 軽くワタシに会釈をして龍麻クンはドアを閉めた。 ワタシは再び一人になる。 龍麻クンの心がワタシには向いていないことは分かっている。だからためらう必要はない。 本当にそう? チャンスはいくらでもあった。犬神先生にも邪魔はされたけれど、それだけじゃないわ。 ワタシがどこかで拒んでいるのかも知れない。龍麻クンの血を手に入れる、それは龍麻クンという人間を殺すこと。龍麻クンを失ったら四人はどう思うだろう。 いいえ、それよりも、ワタシはその時どう思うのだろう?
*
一陣の風が脇を吹き抜けていく。 今まで生きてきて、こんな気持ちで街を歩いたことは多分なかった。 ワタシは病院に行かなくて良かったの? 蓬莱寺クンからそれを聴いたとき、すぐに病院に行こうと思った。 龍麻クンが斬られて入院したという知らせだった。 誰がやったかは分かり切っている。龍麻クンにそれだけのことができるのはあの男くらいのもの。 自分でも驚くほど心配した。龍麻クンを死なせるわけには行かない。目的のためだけとは思えないほどに心配した。 けれど、病院には行かなかった。 意識のない、何の抵抗もできない龍麻クンを前にしたら、ワタシはきっと血を手に入れようとする。それはためらわれた。 どうしてためらったのだろう? ワタシの目的のためには彼の血がどうしても必要なのに。 そして今日は龍麻クンの退院する日。寛永寺での最後の闘いまでもう日がない。ワタシの迷う時間ももうない。早く決めなければいけない。 目的のために彼の血を得るか、心の底の気持ちを受け入れるか。 ワタシの迷いは今日の空のように晴れなかった。 「アッ……」 ふいに向けた視線の先を桜井サンが歩いていく。 いつもの活発な桜井サンの顔じゃない、ワタシに見せたことのない表情をしている。 ワタシも、あんな表情をしているのかも知れない。ちょうど心の中に対立する感情があるような、そんな表情。 今日はクリスマス・イヴだというのに、あんな顔をしてどこへ行くのだろう。 ワタシは桜井サンを眼で追っていた。とにかく、今はこのどっちつかずの気持ちから逃れたかった。 「何をしているの、ワタシは……」 そう思っても脚は止まらない。 しばらく歩いて新宿西口にさしかかった頃、そこに龍麻クンがいるのが見えた。 彼がクリスマス・イヴに桜井サンを誘ったことはすぐに分かった。 ワタシは向きを変えた。見ていられなかった。 龍麻クンの心がワタシの元にないのが分かっていても、悲しかった。心が痛んで耐えられそうになかった。 やっぱり、ワタシは龍麻クンを好きになっていた。 彼が事件に飛び込んでいって、ワタシはそれを心配して…… あの時は自分で逃げることもできたのに、彼に助け出されるのを待っていたり…… ワタシも彼の気を引こうとしてみたり…… ワタシの心の中の彼の部分が大きくなって、彼のことをワタシの生徒としてや黄龍の器としてだけでは考えられなくなって…… 龍麻クンを愛してしまっていた。 悔しいくらいにそれが分かる。 「滑稽ね……」 自虐の笑みを浮かべる。 緋勇龍麻という人間を殺そうとしていたのに、愛してしまうなんて。 それじゃ昔に読んだ童話だわ。 「滑稽ね……」 もう一度ワタシは言った。自分をあざけるかのように。 日が暮れかかり、塔は光を放ち出している。 光の側にはいつも闇がある。けれど、龍麻クンという光はワタシという闇を必要とはせずに桜井サンという純粋な光を必要とした。 もう、二つの光は離れない気がする。少なくとも、ワタシに離すことはできない。 身に付けた叡者の石が塔の光を反射していた。 ワタシはそれを一瞥して立ち去った。
*
「I hope time will take the edge off her sorrow.」 ワタシは自分にそう言った。続けて呟く。 「時が経てば彼女の悲しみも和らぐことだろう」 ワタシに訊いたこの質問を彼は憶えているだろうか? 「フフ、皮肉なものね」 この気持ちはきっと和らがないだろう。 それなら、例え彼が首を縦に振らないと分かっていても、彼の血を得ることしかワタシには選べない。 その彼の気配を感じる。 鉄の扉を開けて彼は屋上に姿を現した。 「……龍麻クン」 ワタシは彼の名を呼んだ。 「来て……くれたのね。龍麻クン……」 もうすぐ《龍命の塔》が地上に現れる。 それまでに、結論を出さないといけないわ。 「マリア先生……」 龍麻クンもワタシの雰囲気を感じ取っている。 「本当のワタシはどちらを望んでいたのかしら。アナタが来てくれること? それとも……」 ワタシがどう思っていようと、龍麻クンが眼の前にいるのは変わらない。決心しなければ…… 「けれど、もう…… 引き返すことはできない……」 彼はこうして学校へ来た。これがおそらく最後のチャンス。 ワタシは空を仰いだ。美しい月が輝いている。 「ご覧なさい、今夜は満月…… 紅の月が心を奪い、心地よい狂気へと誘う…… そんな夜だわ……」 ワタシのこの気持ちも奪い去って欲しい。何も感じずに目的が果たせるように。 「まず、アナタに言っておきたいことがあるの。聴いてくれるかしら……?」 彼は真剣な顔のまま頷いた。 「今夜あなたをここへ呼んだのは、教師としてじゃない…… ワタシは……」 短いため息をワタシは一つついた。 「ワタシは、アナタのことを愛しているわ……」 龍麻クンは驚いた顔をしなかった。 気付いていたのだろうか? それならそれでイイ。ワタシを選んでいないことに変わりはないから。 「アナタを探してワタシはこの真神学園に来た。そして、アナタは宿星の導くままここへ転校してきたの。でも、こうなるならワタシはやめた方が良かったのかも知れないわね……」 「マリア先生」 ワタシの言葉はそれで遮られる。ワタシは思わず彼を見ていた。 「マリア先生がどう思っていようと、俺は真神に来て良かったって思ってます。こうしてマリア先生やみんなと出会えたことは後悔することじゃありません」 「……でも、アナタがワタシを愛していないことは分かってるわ。それに、ワタシのことはもうどうでもいいの」 ワタシは嘘を言っている。けれど、これ以上はワタシも彼も苦しむだけだからもうそのことは考えない。 「今夜、寛永寺には行かせないわ」 「……!」 龍麻クンの表情が驚きに変わる。 「今、アナタをあの男に殺させるわけには行かないの」 あの男が誰を指しているのか、彼にも分かったようね。 「フフ、何故ワタシがそんなことを知っているのか、何故ワタシがアナタを必要としているのか、ワタシに訊きたいことはたくさんあるんじゃない?」 彼はわずかに俯き、首を左右に振った。 「……何も、何も訊きたくありません」 今度はワタシが驚かされる番だった。 「龍麻…… アナタはいつもそうやってワタシを戸惑わせるのね」 でも、目的のことは聴いておいてもらいたい。 「ワタシは、アナタをこの真神学園で待っていたの。アナタに出会い、そして……」 彼にこれを伝えた時、彼はどう思うのだろう。 「……アナタを殺すために」 思い詰めた表情をしたまま何も彼は言おうとしない。 冷たい風が吹いた。 龍麻の表情を見ていて、昔のことが何故か思い出された。 あんな理不尽さを感じていた顔を昔のワタシもしていたからだ。 「ねェ、龍麻。少しだけ昔話を聴いてもらえないかしら?」 龍麻はゆっくりと頭を上げ、はい、とだけ言った。 ワタシは微笑み、話を始めた。 愚かな恐怖に駆られた卑小な人間のこと。人間がワタシの一族を駆逐させていったこと。 そして、ワタシの望み。 けど、ワタシは人間に救いを求めてはいないのかしら? 龍麻は人間。たとえ宿った《力》とは言え、人間を頼っているとは言えないかしら? 「!」 地鳴りが始まった。 そう、そうよ。もう迷っている時間はないの。ワタシたち闇の末裔の安息を取り戻すのよ…… 「今のアナタたちでは決してあの男、柳生宗崇には勝てない。彼は人の身でありながらワタシたちにもっとも近い存在だから……」 わずかに期待して言ってみたが、こんなことを言っても龍麻たちはあきらめないだろう。 「いいえ、あいつは俺たちが絶対に止めます」 さっきまでの彼とは裏腹に、彼の口調には決意と、仲間を信じる気持ちが感じられた。 「先生…… 俺は人間だから先生がどんなに悔しかったのか分かりません。先生がどれだけ苦しんだのか分かりません。けど……」 「やめましょう……」 龍麻と話していると決意が揺らぎそうになる。彼の言葉を止めずにはいられなかった。 「ワタシのために死んで欲しいなんて、そんな都合のいいことは言わないわ。ただ、あなたの気持ちが聴きたかったの」 ワタシは彼をじっと見据えた。 「たとえワタシの屍を乗り越えても、アナタには護りたいものがある……?」 龍麻もまた、ワタシを見据えた。その眼には生きる決心が見て取れる。迷いのない、美しい瞳。 「……俺が死んだらみんなや……」 彼は少し間をあけた。 「……小蒔に会えなくなる。それは絶対に嫌です……」 分かり切った答えだった。それでも表現しきれない気持ちになり眼を閉じる。 「……そうね。アナタには大切な仲間と、愛する者がいる。アナタの答えはそれでイイ。それでイイわ……」 ワタシは閉じていた両眼を開いた。彼の顔が見える。 「これで、アナタを憎める……」 涙が零れて頬を濡らした。 龍麻は黙ってワタシを見ている。 「アナタの気持ちは分かったわ…… ならば、アナタも命を懸けなさい」 ワタシと龍麻が闘うことは決まっていたことなのかも知れない。ワタシの本心がどちらか最後まで分からなくても、龍麻に最後まで闘う意志がなくても。 「アナタの大切なもののために…… アナタの望みのために…… アナタ自身のために……!」 紅い月が屋上を照らしていた。地鳴りは響き続けた。二人の間には悲しみしかなかった。 ワタシは、決心したはずなのに最後まで迷っているような弱い存在。もう、龍麻を憎まなければ闘えそうにない。だから憎むと決めた。憎めば龍麻と闘えるから。 涙が止まらなかった。 でも、ワタシの中の誇りが引き返すことを許さない。 ワタシの中を流れる血が決して戻ることを許さない。 闇の誇りと血に従い、龍麻と闘うことしか選べない。 ワタシは《力》を解き放つ。
「お行き、蝙蝠たちよ!」 |
|