□Cold Rain□


 

 雨が降る……

 浄化の雨が……

 

 

 ふ、と目が醒めて枕元の時計を見る。

 6:30AM。

 まだ寝れるな、と思って寝返りをうっても醒めた思考は妙に冴えていて。

 仕方なく身体を起こす。

 カーテンから差し込む光はいまだなく。

 あれから、もう二日もたったなんてあまり実感がわかない。

 激しい戦闘の末、新宿を護れたらしいことはわかったが。

 四月に転校してきてからこの半年以上、目まぐるしく変わる状況についていくのがやっとという感じだったので、今の平穏が逆に落ちつかないというのもおかしな話なのかも知れない。

 みんなが望んでいた平和がここにはあるというのに。

「別に嫌だってわけじゃない……」

 無意識に呟いて頭を振る。

 一人だと考えが堂々めぐりをしてしまう。

 暖かい布団から出てカーテンを開くと、外は雨だった。東京はあまり寒くなければ冬でも雨になる。昨日の天気予報からいっても今日は一日中雨だろう。

 一層滅入る気分をどうにか浮上させようと、普段着に着替えて朝食を作り始める。

 

 ピンポーン。

 玄関チャイムの音。

 温かい紅茶を飲もうかと台所でお湯を沸かしていた龍麻は首を傾げる。

 9:00AM。

 冬休みのこんな雨の日に来訪者とはあまり想像できない。

 扉の覗き窓から確認しようとするまでもなく。

『おいひーちゃん、居るんだろ? 開けてくれよ』

 聞き慣れた声に慌てて扉を開く。

 そこにはいつもの学ランではなく、青いパーカーにジーンズという軽装でシンボルの紫の木刀袋と傘を持った京一が立っていた。

 余程あっけに取られた顔をしていたらしい。

 京一はニッと笑って空いている手を挙げた。

「よッ、おはよう」

「あ、うん、おはよう」

「入れてくれないのか?」

「え、あ、ごめん」

 京一の指摘にようやく止まっていた思考が動き出す。それでもいくらか動揺の残る動きで横に寄って京一を部屋に入れる。勝手知ったるなんとやらか、京一はすんなり上がって奥に入っていく。

 やかんが蒸気の音をたてたことで、お湯を沸かしていたんだと思い出した。

「外、寒かっただろ? 今お茶出すから座ってろよ」

 そう言って台所に戻ってやかんに水を足す。

 それらの動作をしたことで、少し落ちつきを取り戻して考える。こんな朝早くに京一が来るなんて珍しい。晴れていればどこかに出かけようとは思うけど、外は雨。一体何があったというのだろう。

「なぁ、何か……良くないことでもあったのか…………っ!?」

 居間にいる京一に問いかけようとして振り向きながらのセリフは続かない。

 まさか、後ろにいるんだとは思わなかったから。

 驚いて動きが固まった龍麻に、京一はまた得意そうに微笑んで顔を覗き込む。

「俺が早起きしたらいけないっていうのかよ?」

「そ、んなことは、ないけど……朝早いし、外天気悪いし、まさか誰か来るとは思わないだろ、普通は」

 嬉しそうにこっちを見る京一に気圧されて、あまり意味のないことを言ってしまう。顔にかかる微かな吐息の感触に、今更ながらに京一が至近距離にいるんだと理解して反射的に少し逃げ腰になる。台所だからそんなに下がれる訳はないのだが。

「なんとなく、だな。朝起きたらお前の顔が見たくなった。だから来たんだ。それが理由」

 やっぱり狭い台所だとあまり動けなくて背中がキッチンに当たる。それを見越したかのように、京一が龍麻の言葉に答えながらもこれ以上動けないように両手をついた。

「危ないよ、京一」

「どうしてか知りたいか?」

 後ろはガスコンロ。おまけに火がついている。そちらをちらっと見ながら、身体の両脇に手を突いた京一の行動をたしなめる龍麻の言葉と京一の言葉が重なった。

「え?」

 問いかけるようなその響きに思わず合わせた視線。いつもはふざけた光を宿す鳶色の瞳は、真剣さを帯びていて。

「ここ三、四日、すげェ色々なことがあって特にひーちゃんは大変だったと思うけどよ」

 『黄龍の器』というなすすべくもない宿命に向き合わされて。その結末を自ら締めくくったその精神力はどこからくるのだろう。

「忘れて、ないよな?」

「何を?」

 確かめるような京一の言い方に、眉をひそめる。射るように見つめられて目はそらせないけれど。

「俺が、ひーちゃんを好きだって言ったこと」

 その言葉に目を瞬かせる。

 忘れるわけがない。

 自覚はないけれど、三日間眠ったらしい後に目覚めていきなり告白されて接吻されたことは記憶に新しい。そのあとの立て続けの事件の方に意識をとられてしまって、それから何もなかったから気にはしていなかったが。

 困ったような龍麻の反応に忘れていないことを確認して、京一は微笑んだ。

「だから、今日来たんだよ。流石にあの戦闘の後すぐ出来る会話ってわけじゃねェから、一日おいてみたんだけど。何もなくなったから、少しは考えてもらいてェな……ッて」

 俺にしては殊勝な心がけだろ、と呟いて明るく笑う。

「お前が好きだよ……夢に見るくらいにな」

 京一は全身に染み込むくらいの響きのよい声音で囁きかけてくる。普段の軽い口調とは違った、熱を持った言葉。

「阿呆」

 答えに困って。

 返した声には軽蔑も同情も含まれておらず、ただ、困惑。

 恋愛に興味がなかった分、こういう時にどうしたらいいのかわからないのだろう。

「ひーちゃんが俺のこと好きになってくれるんだったら、阿呆でもいいさ」

「好きにならないかも知れないのに?」

「大丈夫、俺イイ男だから」

 いつもの調子の良い京一のセリフに思わず笑みが零れる。なんだか朝起きた時の不安な気持ちがいつのまにかなくなってるのが不思議だ。

 ゆるく視線を落して。

「どうして俺なんだか……」

 さすがにこれだけ近くに居ると、いつもなら聞き流される単なるぼやきでも相手にはしっかり伝わってしまう。

 京一はほんの少しだけ上半身を傾け、龍麻の男のクセに白い項に吐息がかかるほども近く顔を寄せた。

「一目惚れ、ッて言ったら信じるか?」

 クスクスと悪戯っ子のように笑う京一。触れてはいないが、かかる息の熱さに背筋がぞくりとして逃げるように身を捩る。もちろん、動くスペースはないのでほとんど意味をなさなかったが。

 顔を背けたままの龍麻に京一も動かないままで。

「キス、してもいいか?」

 これだけ側にいるのに触れることすら禁忌かと思わせる神秘的な雰囲気をもつ、佳人。別にそうと言われた訳でも無いのに許しを乞う。

 さらりと動いた黒髪の気配に京一が顔を上げる。

 本人は意識していないのだろう、澄んだ漆黒の闇に星を浮かべたような瞳に物憂気で思わせぶりな美貌をむけられて、京一は内心で動揺する。古武術で鍛えられた身体は俊敏に機能するだけの筋肉がついてはいるのに、着痩せするせいでほっそりして見えるのだ。全体的に見ても華奢で儚気な印象を醸し出している。

「全く、お前は……」

 諦めたように溜息を付く姿も悩ましげで。思わず強く抱き締めたくなる欲望を必死に抑える。そんなことをしたら嫌われてしまうかもしれない、という不安が京一には強くあって。だが、次に龍麻が呟いた言葉に耳を疑う。

「キスくらいなら、許してやる」

 そっと閉じた目には優雅で長い睫毛。凛として見目麗しいだけでなく、どこか魅了させる雰囲気も持っている綺麗な顔。

 片手を顎に優しく添えて少し上向かせて、誘われるように京一は顔を寄せる。

 触れるだけの接吻。

 温かい感触が離れたと思ったら。

「少し、開けて」

 優しく唇をなぞる指で口を開くことを言われているのとは分かったが、龍麻にはそれが何なのか思い至らない。優しい色をした瞳に問うように首を小さく傾げて。

「きょう……」

 呟いた言葉は完全な形にはならなかった。

 京一は華奢な腰を引き寄せ、先程とは比べものにならないくらい熱っぽく唇を奪う。突然のことに驚いて逃げる龍麻の舌を絡め取って翻弄する。

「ん……っ」

 苦しくなって京一の背中に腕を回して縋り付くと一層強く抱き締められたが、接吻は逆にとろけるように優しいものに変化した。

 一瞬とも長い時間ともとれたその行為は、背後の甲高い音によって終わりを告げた。

 驚いて京一の腕の力が緩んだ隙に、龍麻はするりと背を向けてしまう。

 蒸気を吹くやかんを置いたガスコンロの火を止め、棚からカップを二つ取り出した。

「たつ……」

「十分、だろ?」

 何か言おうとした京一の言葉にかぶさるように、龍麻が少し怒ったように言った。本当は怒ってはいなかったのだが、急に止められた行為に対してどうしようもない恥ずかしさを覚えてどうしたら良いのかわからなくなってぶっきらぼうに言ったために、怒ったような感じになってしまったのだ。

 案の定、その言葉に京一が反応する気配がする。

「お、怒った、のか?」

 キスだけだというのに、目の前の誘惑に勝てなくて抱き竦めてしまったのがいけなかったのか。まだまだ片思いで龍麻に嫌われるのを恐れている京一としては、ホンの少しの事でも気になる。

 男同士というのは確かに自分も嫌なのだが、こと龍麻という存在があまりに自然に受け入れられていて。一目惚れという言葉が嘘じゃないと思うようになった。

 それも、つい最近自覚したばかりだったが。

 抱き締めるくらいなら別に大丈夫だろうというのは甘い考えだったのか。

「別に、いいって言っただろ」

 思考が空回りしだした京一のそんな思いは龍麻には届かなかったが、背を向けたまま否定してやる。接吻をされていた間の奇妙な感覚がよく分からなくて、なんとなく顔が合わせづらかったのだ。

「本当に、怒ってない?」

「ああ」

 確かめるような問いかけに、ぶっきらぼうに返す。すると、急に背後から抱き締められた。

「こ、こら、危ないだろ!!」

 お茶を入れるために熱湯を扱っているのは分かっているだろうと言わんばかりに京一を強く非難する。京一はそれでも龍麻から離れずに肩口に顔を埋めて。

「好きだよ、龍麻」

 囁くほどの告白。

 身体に直接響いたその言葉に、龍麻は小さく反応した。

 それに満足したのか、京一は龍麻を解放してキッチンに並べられた二つのカップを手にする。

「これ、向こうに運べばいいのか?」

「あ、う、うん」

 驚いて見つめたきららかな瞳に、京一はわかったと頷いて台所を出ていく。

 龍麻はあまりの展開の早さについていけず呆然としたまま、なんとなく唇に指を持っていってしまう。

 まだ、あの温もりが残っているようで。

「何だか……」

 良く分からない。

 けれども、今なら少しだけ朝の自分の気持ちが理解できた気がする。

 寂しかったのだ、自分は。

 戦いが終わる前までは、たくさんの人が周りにいた。

 何も言わなくてもいつのまにか。

 だが、今回の一連の事件の黒幕を倒したことで事件は一応の解決をみた。

 理由があって集まっていた仲間は急に離れていくことはないけれども。

 やはりどこかに寂しいと思う気持ちがあったのだ。

 折しも外は雨。

 こんな日には気軽に誰かに会いに行くということもできない。

 だから。

 

「……弱いな、俺は」

 いくら強い技を身につけても心までは変わるはずもない。

 雨という天気は気が滅入ることも多いけれど。

 全てを洗い流す浄化の雨とも言われる。

 たまには。

 いつもの自分を捨てて自分の心に正直になるのも悪くはないかも知れない。

 そうしたら京一はどんな顔をするだろう。

 悪巧みを思い付いた子供のように、龍麻は小さく微笑んだ。

 

 

『一人でいて寂しかったんだ』

 

 


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