波は穏やかである。
雲は緩やかに流れ、今は澄んだ夜空が広がっている。月は、ない。
港内に繋がれた船の内の一隻、無人の甲板に寝転がり、京一は一人星の煌めく空を見つめていた。
一度出撃命令が下れば彼が指揮を執ることになるこの船には、他に誰の姿もない。今頃は部下達が躍起になって、仕事を途中で放り出して消えた彼を探しているのだろうが、そんな事は京一の意識の端にも掛かってはいなかった。
「…………」
どのくらいそうして空を見ていたか。
彼はふと口を開き、すぐに閉じた。
京一の顔には何とも形容し難い表情が浮かんでいた。まるで、自分が口にしかけた言葉が予想もしていなかったものの様な。
「――んなコト、ねェよ」
目を閉じ苦笑して、京一は再び星を見つめることに没頭し始めた。
しかしそれは、思わぬ程近くで響いた声に途切れさせられてしまう。
ちらりと視線を横に流し、京一は声の主が現れるのを待った。彼がこの場所を好み、仕事をサボる時や何かから逃げる時にここへ腰を落ち着けているのを知っているのは、この国でも一人だけだ。
「よォ、醍醐」
甲板へ姿を現した人影へ京一がのんびりとした声を投げれば。
すぐ側まで近づいてきた巨躯の持ち主が軽く息をついた。
「よォ、じゃないだろう。何時だと思ってるんだ。聞けば仕事も途中だと言うし、仮にも一国の王子がこんな時間に――」
「んな堅ェ事ばっか言ってっと小蒔のヤツに嫌われんぞ。まだ宵の口じゃねェか。――たまには夜風に当たってたいんだよ」
「さッ、桜井の事は関係ないだろうッ!」
「何だお前、まだ『桜井』なんて呼んでんのかよ。堅いにも程があるぜ」
「む……。――今はそれとは別問題だと思うがな、京一」
からかいの言葉をすぐに引っ込めた京一の隣にどっかりと胡座をかき、醍醐は手で顔を覆った。おそらくは赤くなっているのだろう頬を隠そうとの試みらしいが、確かに夜目にもほんのり染まった頬が見てとれる。
「だーかーら。言ってんだろさっきから。考え事ぐらいゆっくりさせろよな」
「……まァ、そういう事ならな」
咎める様な口調ながらも動こうとしない京一を無理に連れ戻そうとしないのは、それが彼の本心でもあると感じた為であろうか。
傍らに座り込んでいる醍醐の存在など無視するかの様に、京一はただ空を見つめ続けていた。
或いは、その先にあるものを、であったかも知れない。尤も、京一はそんな素振りを全く見せはしなかったが。
「なァ、醍醐。お前は俺を、どう思う?」
不意に問いかけの形でかけられた声音は、質問としてはいささか不十分と言えるものだった。
最も多く彼に触れる機会がある醍醐でさえ、その答えを引き出すのに少々苦労した程。
「そうだな……。一艦を率いる士官にはまず見ない程不真面目な奴だと思う時もあれば、驚く程有能な指揮官であり戦士でもある。――だが、その辺り全部を差し引いても、俺の信頼できる友であることに変わりはないな。少々、素行に目に余る部分はあるが」
京一の本来の身分には直接触れず、醍醐はそう答えた。言葉にせずとも京一には言わんとしている事が伝わるはずだ、そういう確信を以て。
過たずそれを読みとり、京一は苦い笑みを口の端に刻んだ。そんな事を聞かずとも、醍醐の京一に対する態度を見ていれば彼の答えなどすぐに分かるというのに。
柄にもない事を聞いてしまった、そんな笑みであった。
「悪ィな、変な事聞いちまってよ」
「ははッ、気にするな。その代わりに大人しく戻ってくれれば文句はないさ」
「ちッ、しゃーねェ。戻ってやるよ」
醍醐が元々は彼を捜しに来たのだったと思いだし、京一は渋々といった体で立ち上がった。
「明日の会議で、大がかりな海賊征伐が決まりそうなんだよな」
「おそらくはな」
桟橋に降り立ち、京一は船の横腹を手のひらで撫でた。
「またコイツに無茶させる羽目にならなきゃイイがな」
京一いう所の「コイツ」――京一が指揮を執る彼の船――名を、アイオリアという。風の女神の名を受けたというだけあって、船足は疾い。
先立っての賊征伐で奇襲による傷を受け、ようやく補習が終了したばかりなのだ。
「お前にもそれは言えるぞ。俺達が何度肝を冷やしたか」
「俺があの程度のヤツらに傷受けるとでも思ってんのかよ。<闇鬼>でも出て来ねェ限り無理だぜ」
「ふむ。――最近は<天龍>という輩も侮れんというぞ」
「<天龍>?」
聞き返す京一に、醍醐は一つ頷いてみせた。
「報告書が上がって来ていたはずだ。何でも、頭はまだ随分と若いらしくてな。俺達と同じくらいだそうだ。だが、腕は立つらしい。やり口はまだ穏やかな方だというが、その内どう変わるかわからんからな」
「へェ、面白そうじゃねェか」
「――見つけても暴走してくれるなよ」
無駄かも知れないが、釘をさしておくにこしたことはない。そう思って口を開いた醍醐へ、京一は「んな事するかよッ」と軽口を返したのであった。
「京一様!」
「殿下がいらっしゃったぞッ」
「……お出迎えってか。イヤな奴らに見つかっちまったぜ」
部下だけでなく、城に控える臣下達も京一の「捜索」に加わっていたらしい。たちまち渋面を作る京一の背を、醍醐は苦笑混じりに叩いた。
彼の本来の身分を考えれば諦める他ない事である。城内は退屈で窮屈だという京一を知っている醍醐でさえ、何も言える事はない。
軍隊も窮屈である事には変わりないのだが、京一にとっては随分と楽な様に感じるらしい。こちらの方がまだ肌に合っているのかも知れない。
「京一様、どこへ言っておられたのでありますか!?」
「悪ィな。ちっと夜風に当たりに行ってただけだ。んな騒ぐ事でもねェだろうが」
「そうは言うがな。お前、報告書の承認作業の途中だったんだろう?」
「そーいやそうだったな。はははッ、明日一番にやっからよ。てめェらはもう休みな」
報告書等の書類作りは、京一の最も苦手とするところである。デスクワーク全般、と言い換えても良いだろう。部下が作成したものに目を通して認証するだけとはいえ、苦痛には違いないのだ。
それ故に京一のところの書類提出はいつも遅れがちになるのだが。
「はッ! 失礼します!!」
そんなだらけた面を晒しながらも部下の信頼を損なわないのは、彼の人柄でもあっただろうし、ルーズでありながらやるべき事はしっかりとこなしているからでもあろう。
敬礼を残して去っていく部下と醍醐を見送り、京一は側に控えていた臣下を振り返った。
「殿下。夜更けに外へ出る様な危険な真似はどうか改めてさいませ」
「いらぬ心配をかけたな。以後、慎むよう心がける」
王族の人間としての顔を作り、京一は城へ戻った。
決して、心を許せるとは言えない臣下達に囲まれて。
§
日の差し込む、華やかに装飾された廊下を一対の靴音が軽やかに通り過ぎていく。
目指す場所に辿り着いた靴音は、一呼吸分の間をおいて今度はゆったりとした足取りへと変わった。
「京一兄上ッ! おはようございます!」
礼儀正しいノックの音に応じた京一の部屋へ笑顔を見せたのは、彼の弟にあたる諸羽であった。
弟、といっても母親は違う。京一は先妻の息子、諸羽は後妻であり現王妃の息子だ。
決して穏やかとは言えないこの時代、世継ぎが一人では心許ないと妻を新たに娶るよう進言したのは現在諸羽にべったりの重臣達と聞く。彼らにとって京一の存在は邪険にする訳にもいかない、極めて煙たい存在に違いない。
京一自身は諸羽が成人すれば王位継承権を破棄するつもりでいるが、それを信じる者も城内には皆無といって良いほどだった。
「おう、諸羽。朝から元気だな、お前は」
「はいッ。今日は兄上が稽古をつけて下さる日ですから。寝坊なんてしてられませんッ!」
「あー……そういや今日だって言ってたっけな。会議は午後一だったから……よし。稽古場開けんの面倒だから、中庭でやるぜ」
せっかく整えられた髪を軽く掻き回しながら、京一は身支度を整える為に立ち上がった。必要以上の世話を嫌う京一の部屋には、常に部屋の側に控えている小姓というものが存在しない。身分の高い者には珍しく、京一は全ての動作を自分できっちりこなしていた。
衣装棚から士官服を引っぱり出して身につける。無駄の全くない動作は、軍に入ってから更に磨きがかかった様に思える。
黒を基調とした軍服に、京一の赤茶けた髪は丁度いいアクセントになっていた。
「僕も軍に入る事は許されないのでしょうか……」
京一が身支度を整える間、諸羽はその様子を見るともなしに見ていた。
腹違いの兄に憧れ、慕う彼がそんな言葉を思わず吐いたとしても、誰に咎められるというものでもない。彼もまた、いかにも貴族といった雰囲気の奥深くに強い芯を持っている事に、京一は薄々気付いていた。
「やめとけやめとけ。お前まで軍人になった日にゃあ、親父もお袋さんも泣くぜ。……海軍なんていつ死んでもおかしくねェ。もしもの時はお前が親父の後を継ぐんだ。それに、お前にはさやかちゃんっていう婚約者がいるだろ。お前が護らなきゃ、誰が護るんだ?」
「だけど……! だけど京一兄上は軍に入ったじゃないですかッ。兄上こそ、この国を護るべき人なのに……ッ」
いつかは言い出すだろうと、予想していた事だった。諸羽とて、鈍感ではない。純粋であるが故に、見えてしまうものもあるのだろう。彼には、京一を戦死させる為に周りの者達が彼が軍にいる事を黙認していると思えるのだ。
そしてそれは、その通りとは言えないものの決して間違いではない。
京一を煙たがる重臣達は、彼が戦死してくれることを心の中で願っているのだから。
「そうだな。……けどよ、諸羽。俺には政治とかそういうモンが肌に合わねェ。その代わり、剣で護る力がある。だが、お前は逆だ。お前は俺みてェに前線に出るより、ここから国全体を護る方が合ってる。今はまだ親父の役目だがな。将来はお前が親父の後を継ぐんだ」
諭す様に言い、京一は幾分低い位置にある諸羽の頭を軽く叩いた。二つ下の、この弟を京一は気に入っている。幸せになって欲しいというのが、彼の純粋な願いでもあった。
同時に、共に戦うことが出来ればいいとも思う。稽古をつけ初めてからのこの「弟子」の成長ぶりには、正直舌を巻いていたから。
「さて。あんまり時間もねェことだし、さっさと行くぜ」
「は、はいッ」
隅々まで手入れの行き届いた庭には、人影はほとんど見られない。時折、庭に立つ人影を認めたとしても、それは大抵衛兵の姿だったりするのである。
庭を愛でる人間は、上方のテラスから眺める事が常であった。
静寂に包まれた庭に場違いな金属音が響くのも、今では日常の中にとけ込みつつある。
「てやあッ!」
刃を落とした試合用のサーベルがぶつかり合う音が、建物に囲まれた中庭にこだまする。
打ち合う二人を窓から侍女達がそっと覗き込む姿もあちこちで見え始めた。本人達はあまり自覚していないが、京一も諸羽も、彼女達の間では憧れの的なのだ。叶わぬ恋心を抱く者も少なくはない。
「ガードが甘ェぜ、諸羽!」
「くッ……はい!」
荒々しい剣技は京一自身もまだ未完成のものも多い。だがそれを補う何かが、彼にあるのもまた確かで。
更に幾度かの打ち合いの後、諸羽のサーベルが大きく弾かれた。身体ごと流されかけた諸羽の喉元に刃を突きつけて、勝負がつく。
「へへッ、そう簡単には負けてやらねェぜ?」
「……参りました」
「恐る恐るやってたんじゃ、いつまでたっても俺に勝てねェ。わかるな?」
諸羽は優しい。同時にこの優しさが命取りになるのではないかと、京一は自分の事も棚に上げて心配してしまう。どちらかが生きるか死ぬかの状態で、相手に傷を負わせる事をためらっていては生き残れない。
「はい……」
「やはりここか、京一。もうすぐ会議の時間だぞ」
「おう。悪ィな醍醐」
諸羽を見て礼をする醍醐の肩を叩き、京一はサーベルを諸羽に押しつけた。
「諸羽、後かたづけ頼む。場所は分かるだろ? じゃ、また後でな」
「はい!」
慌ただしく去っていく二人を見送り、諸羽は額に浮いた清々しい汗を拭った。
いつかはあの背中に並ぶ事ができるのだろうか。兄の言う様にこの国を護る事ができるようになるのだろうか。何にせよ、まだ自分は幼すぎるのだと、諸羽は痛い程自覚していた。たった二年でこの差だ。もしこれがもっと離れていたなら、果たして追いかけようなどと思っただろうかと諸羽は考える。
多分、それでも追いかけただろうけれど。
「どうして兄上は……時々、ひどくつまらなさそうな瞳をなさるのだろう……」
その疑問に答えられる者は、どこにもいなかった。
堅い机に振り下ろされた醍醐の拳が震える中、会議は無情にも終わりを告げた。
散っていく同僚や参謀達の中に「第二王子派」と呼ばれる者達の姿を見つけても、京一は椅子に背を預けたまま、いつもの表情を保っていた。
今、この国は大きく分けて二つになろうとしている。まだ城内の重臣達だけの間に過ぎないと思っていた派閥は、軍の中にも入り込んできているらしい。
即ち、京一を擁護し彼を正統な王位継承者と見なす「第一王子派」と諸羽をそうであると主張する「第二王子派」の二つに、である。これは傍観者を決め込んでいる者達に付けられた名称であるが、単純なだけにこれ以上の説明は不要だった。
「まァそんなにカッカすんなよ、大将」
「これは完全にお前の失敗を見込んだ罠だぞ! 分かってるのか京一!?」
「んな事ぁ分かってる」
目の前に投げ出された『作戦案』――海賊のほとんどが単隻構成であることから、こちらもまた単隻で巡航し、相手の隙をついて攻撃、占領する――を眺め、京一はすっと目を細めた。
「――こんなものを『作戦だ』などとよく言えたものだな」
椅子を蹴って立ち上がった姿勢のままの醍醐に軽く礼をし、京一の横に立った男は無表情に、しかしこの声音に嘲りの色を含ませて吐き出した。
「如月」
軍の隠密部隊を束ねる、若き隊長。漆黒の髪は絹の様な手触りを思わせる艶を帯びている。白くほっそりとした体躯はしかし、その身の内に強靱なバネを隠し持っているかの様だ。実力もさることながら、美貌によっても注目を免れる事の出来ない人物である。
「海賊の真似ごとをしてこいって事だろ、要するに。俺は構わねェぜ」
「君を、あわよくば戦死させようという企みであっても、乗るというのかい?」
「――だからこそ、やってやるんだよ」
是非にと名指しされた際に、京一は顔色一つ変える事無く「諾」と答えてしまっている。今更どうしたところで辞退する訳にはいかないのだが、言わずにはおれない事がこの無愛想を絵に描いた様な若者にもあるらしい。
「……生き残る自信は」
「ある。と言えば嘘になるかもな。けど、負ける気はしねェ」
多数対少数。勝利を確実なものにしようと思うのなら、これは最低限の条件であろう。数がないわけでもないのにわざわざ同数にするなど、あまり考えるものではない。
「いつ敵に遭遇するかも分からない上に、接近戦は避けられないだろう。どうするつもりだ?」
「勿論、俺が出るに決まってる。お前は……残ってもいいぜ」
「余計な気を回すな。舵は俺に任せていろ」
醍醐には待つ相手がいる。京一はそういう者に対して気遣う事がよくあった。
己には未だそういう関係の相手がいないから余計に思うのであろうか。
「あぁ。頼む」
「僕も出よう」
突然の申し出に、京一も醍醐も目を剥いた。
特別な任務でもない限り、彼らが同じ戦場に立つ事はないと言ってもいい。彼ら隠密部隊の主な仕事は、情報収集であり、重要人物の護衛でもあるのだから。
「隠密は、接近戦の精鋭でもある。損はないと思うが?」
「それはそうだけどよ。いいのか、本業の方は」
「僕の部下は優秀だからな。しばらく不在だったところで、何の心配もない」
さらりと言ってのける如月に、京一は軽く頷いた。
そして先程から扉の前に立っている青年へ視線を飛ばす。
「ここに残ったって事は、勿論お前も志願者だよな? 劉」
「当たり前や」
目の上を斜めに走る傷を持つ青年は、にっこりと笑って頷いた。
「他の奴らにはあんま無茶させたくねェが……仕方ねェな。編成は醍醐に任せる。決まり次第報告を」
「あぁ」
出航は、一週間後と定められた。
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