衝撃


 

 

 十日ぶりの海の上で、フォルセンの港から出航した小綺麗な商船はその偽装を瞬く間に取り払った。船の上の誰もが、慣れ親しんだ海と自分達の城に安堵のため息をつく。
 舵を握るのは村雨。長い上衣と同じくトレードマークになっている白い帽子を斜に被り、軽く口笛さえも吹きながら船を駆る。
 良い風が吹くと船乗りの間では評判のこの海域であるが、殊に彼が舵を握る時にはそれに拍車がかかっている様でもあった。
「頭! どこへ向かいやすか!?」
 彼らの縄張りと化した領域へ戻るのか、それとも新たな場所へ赴くのか。
 嬉々として問いかけた船員に、龍麻はいつになく穏やかな顔を向けた。
「しばらくはこのまま、風と村雨に任せる」
 その胸元には、真新しい銀の鎖が光っていた。最初に龍麻がフォルセンへ降り立った時とは異なるデザインの鎖である。動きに合わせて微かに揺れたその鎖を指で摘み、龍麻は今度は僅かに瞳を曇らせた。
「……軍の船、まだ戻ってねぇんだって?」
「鉢合わせしたらどうするってぇんだよ」
「俺達にゃあ天運の旦那がついてるんだ。そりゃ余計な心配ってもんだぜ」
 小声というには少々大きすぎる船員達の会話を拾って、龍麻は眉根を寄せた。
 今の彼らにとって唯一の不安材料である所の、軍の帰還の遅れ。龍麻にとっては、それが更に懸念を膨らませる材料となっていた。
(……無事で、いるんだろう?)
 ただ予定よりも遅れているだけだ。強気に「大方、他の奴らにでも沈められたんだろうよ」と皆の前で嗤って見せたのとは裏腹に、龍麻はそう自らに言い聞かせていた。
 そう信じたいという理由が、彼に生まれていたのである。
(できるなら、この船には会わずに帰ってくれ)
 結局、一日も経たずに切れてしまった鎖を取り替えに再び桜井工房へ赴く事になった龍麻へ、「これも何かの縁だしなッ」と丈夫な鎖を見繕って笑った紅茶色の眼差しを思い出して龍麻はそっと瞳を伏せた。
 軍には会いたくない。
 理由は、彼が船に乗っているからだ。
 他の誰よりもそれを嫌悪する龍麻は、他の誰とも異なる想いを抱いていた。
 海賊、と称される者達を率いる頭としてはおよそ相応しくない感情であろう。だが実際に、桜井工房でごく普通の知り合いや友人として談笑する彼らを一瞬でも羨ましいと思い、どうあがいてもその輪の中には入れない自分を恨めしく思ってしまったが故に。
 龍麻は敵として、彼に会う事が怖かった。
 好戦的な眼をして、その次にはとても人懐っこそうな顔をして。素性の知れぬ龍麻にさえも自然に笑いかける事が出来る彼は、その時龍麻にどんな眼を向けるのだろうか。おそらく、敵とみなした者を容赦なく切り捨てる修羅の様な瞳をしているに違いない。龍麻に対しても、他の船員達に対しても等しく。自国の海を脅かす者を、彼は決して許しはしないだろう。
 その視線に晒される事に、龍麻は耐えうるのか。
「頭ッ!」
 マストの上方で見張りを務めていた小柄な男が、緊迫した声で龍麻の思考を打ち切った。はっとして、龍麻は顔を上げて男を見る。
「渦、渦が……ッ!」
 何事かと龍麻が誰何するより先に、男は更に言葉を被せた。
 単語だけでは要領を得ない状況を把握するべく男が指し示す方向へ首を巡らせた龍麻は、思わず船から身を乗り出していた。
「『蒼ざめたメデューサ』か……。これはまた随分と珍しい物が出てきたみたいだね」
 いつの間に甲板へ上がってきていたものか、壬生が龍麻の隣に並んで立っていた。いつもと変わらぬ静かな口調の中、僅かに驚きが滲んでいるのは仕方のない事であろう。
「俺もこの目で見るのは初めてだ。ま、触らぬ神に祟り無し、だよな」
「頭、船です! 船が渦に巻き込まれかけてやがるッ!」
 間に合う内に迂回するにこした事はない、そう言いかけた龍麻を遮る様に見張りの声が飛んだ。成程、目を凝らせば甲板からでも渦の近くに一隻の船影を捕らえる事ができる。民間船という訳でもなさそうだが、軍や海賊といった雰囲気もない。
「よっぽど運の悪い船だな、あれ」
「そして運の強い船、だね」
 龍麻の出す答えがわかっているのか、壬生は柔らかく笑んだ。
 そうこうしている間にも船は渦へ近づいているというのに、二人には切羽詰まった所は全くない。船員達も、緊張はしてもパニックに陥る事はなさそうであった。
 それだけ龍麻を信頼しているのだ、彼らは。
 そして龍麻がそれを裏切った事は、ない。
「このまま船を前進させろ! 手の空いてる奴は阿師谷と雨紋を呼んで来い。……たまには人助けもいいだろう?」
 言葉を切りにやりと唇の端に笑みを浮かべた彼は、まさしくこの船に乗る誰もが恐れつつも惹かれずにはいられない『黒龍』の顔をしていた。
 その言葉に、全員が呼応する。
「出来るだけあれは相手にするな! 船を助けたらそのまま逃げるぞ!!」
 龍麻の号令で全員が配置についた所で、伊周と雨紋が甲板へ飛び出してきた。
「あら? なぁにアレ。おっきなイソギンチャクじゃない」
 東方の出身である伊周には、この近隣の海域にのみ棲息している生物に馴染みがなかったらしい。目をぱちくりさせて率直な感想を漏らした彼に、龍麻は苦笑した。
 驚いているのは砂漠で暮らしていたという雨紋も同様で、彼の方が度合いは大きかった様である。二の句が継げず、ただ怪物とも言えるものを凝視しているだけだ。
 伊周の言う通り、『蒼ざめたメデューサ』は海底でひっそりと住まう巨大なイソギンチャクに過ぎない。海面にまで現れるのは稀だが、厄介な事にそういう時は決まって彼らの気が荒れている時なのである。
 彼らが作り出す渦に巻き込まれた者は、二度と海の上へ戻る事が出来ないという。
 目ざとく渦の近くの船を見つけた伊周は、合点がいった様に頷いた。
「それでアタシの術がいるってワケね。……それにしても、まだあんな所で頑張ってるなんて、あの船にもしーちゃん並の腕の持ち主がいるみたいねぇ」
「そういうこと。ともちゃんは村雨の側で待機。俺と紅葉は向こうへ移る。一時的に制圧した後に離脱。いいな?」
「オレ様も行かせてくれるンだよな? 龍麻サン」
 驚愕から立ち直った雨紋が槍を片手に志願したのに対し、龍麻は首を横に振った。
「お前は甲板で、こっちの船を守っててくれ」
「先生! 行くぜ!!」
 村雨の怒鳴り声の後、ほんの僅かな時間で龍麻達の船は横っ腹を渦へ突っ込みかけていた船へとぶつけていた。目の前に迫った巨大な生物は綽名された通りに髪を振り乱した蛇女の様で、その大きさと相まって船員達を凍り付かせるのに充分な迫力を持っていた。
「後は任せた!」
 その瞬間、龍麻と壬生は甲板を蹴って隣の船へと飛び移っている。
 慣れた身のこなしは危うさの欠片などどこにも見つけようがないものだった。
「アンタ達、ぼさっとしてんじゃないわよ!」
 素早く呪を唱えた伊周が指に挟んだ符を空へと放った。複雑な印を軽々と組み、唇に笑みを浮かべる。
 新入りの叱咤に、荒くれ者達は色めき立った。
 海の事などまだほとんど知らないひよっこに、大きな顔をさせてなるものか!
 気を取り直した男達が油断無く持ち場につく。
「さぁ、荒れる海蛇の眷属たち! アタシの命に従いなさいッ」
 ざ、と波が荒くなった。
 盛り上がった波が二条、細長い壁の様に二隻の周りを囲んだ。半円状の壁は、船でなく気まぐれに外の世界へ顔を出した怪物の方を向いている。
「へ、やるじゃねぇかともちゃん」
 その意図を察した村雨がひゅっと口笛を吹いた。
「甘くみないで頂戴よ、しーちゃん」
 ぱちりとウィンクをした伊周は、次の瞬間には厳しい表情へと戻って腕を水平に振っていた。応えて壁が崩れ、獲物に伸ばされつつあった触手を牽制する動きへと転じる。
 その動きはさながら巨大な海蛇の群。
「腕を見込まれたからには応えないワケにはいかないじゃない?」
 唇には笑みを、瞳には真剣な光を灯し、伊周は『彼ら』を御するべく印を組んだ。



 その頃。
 隣の船へと飛び移った龍麻と壬生は、瞬時に自分達の行動を後悔していた。
「何だお前達は!?」
 渦と戦うのに必死になりながらも、やはり突然の乱入者に意識を向けない訳にはいかなかった者達は、皆一様に驚きと焦りと「こんな時に!」という気持ちとを前面に押し出していた。
 そして龍麻達も、また。
(よりによって、こんな時に)
 幾度か剣を交えた事のある、統一された服の群がそこにいた。彼らが一隻だけで行動しているなどと、龍麻も壬生も考えていなかった。艦隊の中の一隻だけが生き残ったという雰囲気とも、また違う感じがある。
 これは一体どういう事なのか。
 伊周の術の影響か、荒くなった波に足下が不安定に揺れる。サーベルを抜きかけた壬生を腕で押しとどめ、龍麻は一歩前へ出た。逸る兵士の幾人かが腰のサーベルを抜いたが、龍麻はそれに目もくれなかった。
 疑問はこの際、脇へおいておくしかない。
「別に、あんた達と戦いに来た訳じゃない。……目の前で怪物に食われかけてる船を見過ごすのは後味が悪かっただけだ。切り抜けたら退散する」
 だから。
 だから剣を仕舞え、とまでは龍麻は紡げなかった。
 信じられない物を己の目で捕らえた、それがひどく龍麻を打ちのめした。
「京一様!」
「海賊が……!」
 兵士がその名を呼ぶ、明らかに敬意のこもったそれはどうしたって若い一兵士に対してのものなどではない。
 彼が身に纏う軍服もまた、単なる兵士とは一線を画すものと一目で知れる。
 敬礼をする側でなくされる側の人間。
「……龍麻……?」
 自分と同じく驚きに震えた声音を聞いても、龍麻はすぐにそちらを向く事ができなかった。声の主と相対するために、龍麻は全身の力を総動員せねばならなかった。
 俯きかける顔を、必死で正面へ向ける。
 黒く滑らかな質感の軍服を纏う彼は、明るい色をした瞳をいっぱいに見開いていた。こんな時でさえ、龍麻は軍服に映える髪に綺麗だという感想を抱かずにはいられなかった。そしてまた、今まで一片たりとも不服を感じた事のなかったはずの現実に打ちのめされる。
 そう、目の前の彼と自分とは何もかもが違う。
 住む場所も、世界も、何もかもが。
「『黒龍』、と軍人達は俺を綽名しているらしいが?」
 胸中に吹き荒れる感情を悟られぬ様細心の注意を払い、腹に思い切り力を込めて龍麻はそう宣言した。更に見開かれた彼の瞳から目を逸らし、思わぬ名乗りに呆気にとられている兵士を一通り見回す。
「<天龍>の頭、『黒龍』――と言えばもっと分かりやすいか? ……この綽名に賭けて協力する。速やかにこの渦から逃れるために、な」
 そして彼に視線を戻し、龍麻はちょっとだけ苦笑した。
 泣き笑いみたいな、笑顔だった。
「無事で良かったよ。――京一」
「たつ……」
 船を荒い波が襲い、京一はバランスを崩しかけてたたらを踏んだ。
 流石に、龍麻と壬生は平然とまではいかないもののバランスを損ねる事なく立っている。
「紅葉?」
「あぁ。これが軍じゃなければもっと手際よくいけたんだろうけどね」
 普通の船相手の様に、占拠して彼らだけで動かすという方法が今回は取れない。
 向こうも限界だと、壬生が指し示す方から二度三度、伊周が放ったらしい高い波が彼らの前を横切っていく。
 相手にするには大きすぎるが、無傷で逃げるのは更に難しい相手だ。伊周がいなければ、今頃は二隻ともがとっくに渦の中だと言い切って良い。
「村雨! 引き上げるぞ!!」
 了解、の意味を込めて村雨が片手を上げ、伊周が最後の一撃とばかりに腕を振り上げた。
「合図したら思い切り渦の外に向かって舵を切れ!」
 振り返り、龍麻は舵を握る屈強な青年にも有無を言わせぬ調子で怒鳴った。こちらも見覚えのある顔だったが、あえて意識の外へ追い出す。
 今の自分は龍麻ではなく<天龍>の頭『黒龍』なのだから。
 壬生が伊周の動きに合わせて自らの腕をすっと天へと差し伸べた。
「――今だ!!」
 数人の声が唱和し、二人の腕が真っ直ぐに振り下ろされる。
 二隻の船は全く正反対の方向へ舵を切り、海に扇が開いていくかの様な奇跡を描き出した。
 乱された渦が元に戻る前に、と船は全速でその場を逃れる。
「……何とか切り抜けた、かな」
 渦の影響を受けない所まで来た、と龍麻が肩の力を抜いた瞬間。
「――やめろッ」
「京一様!?」
 刃の触れあう音がして、龍麻はそちらを振り返った。一人の兵士が龍麻へ向けた刃を、京一が鞘に収めたままの自らの得物で押さえていた。
 無理もない。危機を脱した今、龍麻と壬生は軍隊の敵として格好の獲物なのだ。しかも片方は<天龍>の頭とくる。武勲上げたさに先走る者がいたところでおかしくはない。素早くサーベルを抜きはなっていた壬生は勿論龍麻にさえも、京一の行動の方が不可解であり突飛なものであった。
 二人とも、場が静まれば次は人を相手取っての戦いが待っていると覚悟を決めていたのだ。
「こいつは……ッ」
 部下の刃を弾き、京一は唇を噛んで立ち尽くした。自身でも、咄嗟の己の行動がわからなかったのであろう。困惑したまま縋る様な眼差しを向けられ、龍麻もまた同じ様な瞳を返すしかなかった。
 どうすればいいのか分からない。
 それが二人の、共通した想いであった。
「僕達に手を出すのならば、相応の犠牲は覚悟してもらいたいものだね。……このまま僕達は自分の船に帰られれば文句はない。それを邪魔する気なら――容赦はしない」
 壬生が静かに、けれどそれを実行する事を厭わないという口調で割って入った。気迫に押され、一人また一人とサーベルが下げられていく。
 彼らの船が横へ並ぶまで、あと少し。
 その時だった。
 全く予想もしなかった方向から、刃が振り下ろされたのは。
「家族の、仇やッ!」
 間一髪の所でサーベルを避けた龍麻を、劉は憎しみの籠もった眼で睨みつけた。ギラギラした光を灯す瞳に神経を逆撫でされながらも、言い様のない懐かしみを感じて、龍麻は気の抜けた様な顔になった。
 賊、と罵られる事には慣れていても、仇と面と向かって言われるのは初めてであった。
「ワイの家族も、一番仲良うしてくれてたアニキも、お前らが全部……ッ!!」
 止めんといてや!と劉は背後から肩を掴む如月をも睨んだ。
「その細工物が! 何でお前みたいな賊の手にあんのかが証拠やろ!? それはワイとアニキだけが持ってるはずの――!」
 吹き出す怒りに任せて、劉は如月を突き飛ばした。
 よろめいた彼を、側にいた壬生が咄嗟に支えるべく腕を伸ばす。
 その間に、劉は甲板を蹴り龍麻へと迫っていた。
「避けろ龍麻ァッ!」
 言われるでもなく龍麻は身を躱していた。
 ちらり、と胸元へ落とした視線を零れだしていたペンダントへと走らせ、それから何かを納得したみたいな表情を浮かべた。
 未だ体勢の整わぬ彼の足を誰かが払った事にさえ、その時の龍麻はさして驚いていなかったかも知れない。
 たった今、己に向けて刃を振るった劉に対して程は、確実に。
「――弦月」
 そんな呟きを残して、龍麻の身体は逆さまに船から落ちていた。
「龍麻!!」
 躊躇いもなく飛び出した京一も諸共に、一度だけ派手な水飛沫が上がり甲板にまで到達した。
 間近にまできていた船に大声で何かを叫び、壬生もまたその後を追う。
「京一様!」
「京一様ッ!!」
 群がり、水面を覗き込む兵士達の声に大丈夫だと応える自信に満ちた声はない。
 劉はひどくぎくしゃくとした動きで、龍麻の落ちた場所を見やった。手にしていたサーベルの切っ先が徐々に下を向き、ついには乾いた音を立てて甲板に落ちた。
「弦月て……呼んだ……」
「劉君?」
 心配そうな面持ちで覗き込む如月も、彼の目には入っていない。
「弦月て……仇の癖になんで……? 仇の、はずやのに……」
 がくん、と膝から崩れ落ち、劉は自分の胸元をかきむしる様に握りしめた。
 たった一言、ぽつりと呟かれた声が耳に残り、劉の心をかき乱してゆく。
 あんなにも自然に自分を呼ぶ声を、劉は知らない。それは記憶の中にしか存在し得ない音律のはずだった。
「アニキはもう……おらんはずやのに……!」
 三人の人間を瞬く間に身の内深くに飲み込んだ海は、その痕跡すら留めることなく緩やかな表情へ戻っていた。

 

 


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