誰かの腕を感じていた。力強く優しいその腕は龍麻をしっかりと捕らえていて、まるで荒ぶる海から護ろうとでもいうかの様だった。目を閉じてしまった龍麻には見えるはずもないのに、その腕の持ち主が鮮やかな紅茶色の髪をしているのがわかっていた。
これが誰の腕なのか、知らないはずなのに龍麻は知っていた。
「…………」
「――……ッ、…………」
見えるはずのないものが幻想の視界から消え、龍麻を雑音が包み込んだ。
徐々に身体の感覚が戻り意識が緩やかに浮上していく過程で、少し離れた場所で発せられている雑音が聞き知った者達の声へと変わっていく。
「く……れは……?」
そこにいるのかと、聞こえた声を頼りに呼べば、すぐに応答があった。側に彼が近づいて来たのを感じて、龍麻はそっと瞼を持ち上げた。薄暗いランプの明かりも、今の龍麻には少々強い刺激だ。
幾度か瞬いて、目を光に慣れさせる。心配そうな壬生の顔が、側にあった。
「気が、ついたかい? どこか痛む所は?」
「だい、じょうぶ……だ。心配かけたな」
軽く頭を振って起きあがると、背中に壬生の腕が差し出された。苦笑してそれを戻させると、龍麻は静かに立ち上がった。まだ軽くふらつくが、それもすぐに治まるであろう。
「水でも飲むかい?」
「……あぁ」
壬生がそちらへ手を伸ばす前に、村雨が用意されていた水差しから水を注いで龍麻へ蒼いグラスを差し出した。受け取り、龍麻は一口流し込む。冷やされていたのか、喉を伝う冷たさが心地よい。その反面、こんな事で術を使わせた事に申し訳ない様な気持ちになった。
海へ落ちる事など、海で生活していれば最初の内に何度か経験するものだ。下手をすれば命がないというのは百も承知の上での生活。今更これぐらいで寝込む程度では到底やっていけるものではない。
「俺はどれぐらい寝てた? その間の事と……あいつの処遇に関しての説明を頼む」
縛り上げられて部屋の隅に転がされているのは、紛れもなくフォルセン国第一王子――京一――その人であった。持っていた剣は、龍麻の机の上に取り上げられている。床に転がされるという屈辱にもさして顔色を変えるでもなく、彼はじっと龍麻を見つめていた。
「あの後、彼がすぐに君の後を追った。続いて僕が。兵士達は混乱するだけで何もしなかったから、楽に君たちを連れて船に戻る事ができた。……大して時間はたっちゃいない」
「奴らは王子様をおいて帰ったみてぇだぜ。白状だねぇ」
揶揄する様な村雨の言葉にも、京一は眉一つ動かさなかった。
「とりあえず僕たちは君の意識が戻った事を知らせに行くけど……しばらくは目的地を定めなくても良いよね?」
本来ならば彼らが根城としている海域へ戻るつもりだったのだが、京一という予想外の荷物が転がり込んだおかげでそれもままならなかった。
ちらりと壬生が京一へ流した視線のみでそれを読みとった龍麻は、軽く瞬きをして頷いた。
「そうだな。しばらくはお前達に任せる」
「そいつの処遇が決まったら上に顔を見せにきてやってくれよ、先生」
二人が退室し、扉が閉められてしまうと部屋の空気は一気に重さを増した。そうしているのは龍麻であり京一である。
視線を逸らさない京一から逃れるみたいに、龍麻は机の上の剣を取り上げた。
「…………」
鞘に収めたままの剣を片手に持ち、龍麻は京一へ近づいた。一歩進む毎に、京一の顔に表情が現れていく。それは、瞼が静かに下ろされる事によって覚悟の表情を形作った。
「……京一」
静かに名前を呼ぶと、京一は目を開いた。身分を互いに暴かれても尚、京一と、そう呼びたくて。そうとしか、呼べない気がした。ただの京一と龍麻として出会ったからそれでいいと、そう思いたかった。
小刀で縄を断ち切る龍麻の動きを、京一がじっと見守っていた。身体の自由を取り戻した京一は、床に座り込む事で龍麻との距離を縮める。しかし言葉は何も出てこず、二人はしばし屈み込んだままで見つめ合う事となった。
「どうして――どうして俺を助けたんだ?」
呟きの形で龍麻の口から吐き出された問いは、空気に触れてから京一へと方向を定めた。荒く縛り上げられたおかげで擦過傷の出来た節々をさすりながら、京一が出した返答は至極単純で彼らしいものであった。
「助けたかったからに決まってんだろ」
他のどんな手段などよりも、己の手で。
あっさりと言い切ったその口で、京一は躊躇いながらもずっと頭にあったらしい疑問を龍麻へと投げかけた。
「なァ龍麻。その……ホントにお前があの『黒龍』なのか?」
間違いであって欲しい、と京一の瞳は何よりも雄弁に彼の気持ちを語っている。
龍麻もまた、間違いであれば良かったと思わずにはいられない。
龍麻が海賊であることも、京一が軍に属している事も、加えて一国の王子であるという事も。
しかしそれは紛れもない、真実。
「そうだよ。京一が、その身分にも関わらず海軍に飛び込んだ王子様なように」
「そうは見えねェだろ?」
「あぁ。思い切り騙された気分だ」
冗談ぽく苦笑してみせた京一につられる様に、龍麻は笑いながら軽口を返した。そんな龍麻へ、心底安堵したという様なため息と共に、京一は嬉しそうな笑みを浮かべた。
「なんかさ、もう普通に喋れねェんじゃねェかって思ってたから、すげー安心した」
普通に考えれば、この状況下で敵同士とも言える二人が和やかに談笑するなどあり得る訳もないのだが。
「そっくりそのまま、京一に返すよ」
彼の本当の身分を考えれば、こんなにも気軽に言葉を交わす事など考えられない事態であるはずだ。
「別に俺は王子だからとかそんなモンで区別しようだなんて思っちゃ……」
早口で弁解しかけた京一が途中で照れた様に頬を掻き……二人は顔を見合わせて吹き出した。そんな言い訳などどうでもいいことに気が付いたのである。結局の所互いの位置づけがどのようなものであれ、出会って友人となった事は否定したくないのだと二人ともが思っていたということ、それだけで良かったのだ。
「そうだ。龍麻、お前んトコに伝達鳥いるか? すぐには戻れねェにしてもよ、無事だって事ぐらいは一応知らせとかねェと」
「後で都合つけるよ。……一つ、聞いていいか?」
「おう。何だ?」
どう切り出したものか考えあぐねて、龍麻はしばし宙を睨みつけた。
唇を舐めて湿らせ、ゆっくりと口を開く。
「船に乗ってた、劉……弦月のことなんだけど。彼はケイロン出身……?」
龍麻の中では確信を持っている事であるが、もしかしたらと考えれば質さずにはいられない。それを確かめた所でどうにかなるという訳でもないのに、である。
龍麻にとっては、確かめる事それ自体が目的と言っても良かった。
「あァ。生まれはケイロンだって話だ。とは言っても、まだちっせェ頃に船が襲われてフォルセンまで流されてきたらしい。あいつはお前の事、仇だっつってたけどよ」
いくらなんでも年齢的に計算が合わない。
完全に頭に血が上っていた劉には、それを考える余裕すらなかった様だが。
「あいつとはさ、親同士が仲良かったから兄弟みたいにして育ったんだ。……俺が四歳の時かな。一緒に船に乗って大陸に行く途中で海賊に襲われて。俺の家族も弦月の家族も皆殺しにされた。俺はたまたま〈天龍〉の前の頭に助けられて息子みたいに育ててもらったけど。……生きてて、良かった」
龍麻は安堵したかのように淡い笑みを浮かべた。それは正しく、弟の無事を喜ぶ「兄」の顔であった。
「俺の分かる限りでよかったら、あいつの事、聞かせてやるぜ」
「ホントか!? 是非頼――」
突然、激しい揺れが船を揺さぶった。
床に座り込んでいたおかげで龍麻達には大した被害はなかったものの、机の上に置いていたものの幾つかが耐えきれずに床へ落ちる。
大きな揺れが去ると同時に素早く立ち上がり、龍麻はサーベルを掴んだ。
波にあおられた訳ではない。何事もなく船がこんな風に揺れる事は滅多にない事だ。
それこそ、敵や魔物に遭遇しない限りは。
「頭!!」
ドンドンドンと、礼儀も何もかも忘れてドアが乱暴に開け放たれた。そんな事を取り沙汰している場合でないのは龍麻も承知している。荒く息をつく男へ、龍麻は鋭く声を投げた。何事かと問われ、男が引きつった顔のまま叫ぶ。
「〈闇鬼〉です! いきなり目の前に現れやがった!!」
〈闇鬼〉と聞いて、龍麻は勿論京一もさっと顔色を変えた。残酷無比なやり口で有名な彼らと、好んで出くわしたがる人間などいはしない。それは近辺の海賊だけでなく、海軍にすら暗黙の了解として染みわたっている。
彼らに襲われた船は、紅く染まった棺桶となる――。
事実であるだけに、聞く者の背筋を寒くさせる話であった。
「村雨と紅葉は!?」
「戦闘準備に――」
「俺もすぐに行く。お前も持ち場につけ!」
男が身を翻して駆け出した後、龍麻は机に置かれていた京一の剣を手に取った。既に立ち上がっている京一の手に、半ば無理矢理それを押しつける。
「おい――」
「それはお前の剣だろう? 奴らとぶつかったら、他人護ってる余裕なんてないんだ。この船も安全じゃなくなる。だから、自分の身は自分で守ってくれ。生きてさえいるなら、後は好きにしていい」
早口で捲し立て、言外に騒ぎに乗じて逃げ出すのも自由だと言い、龍麻は京一を置いて部屋を出た。やや混乱し始めた感のある船内を駆け、甲板へ飛び出す。
風に乗って、血臭が微かに鼻をついた。
先刻も他の船を襲っていたのか、それとも染みついた臭いか。
「先生ッ!」
「龍麻!」
既にほとんどのメンバーが甲板に上がっていた。その中には勿論、伊周と雨紋の姿もある。
首を巡らせるまでもなく、龍麻の視界に黒く塗られた海賊船が映る。
船足が異様に速く、また突如として現れると噂のその船は、まるで龍麻達の船を喰らおうとしているかに見えた。
「先手を打つ。――行くぞ!」
龍麻の声に合わせ、船が滑る様に走り出す。真っ直ぐ向かってくる船を避ける様に柔らかな弧を描きながら、船の横腹を摺り合わせる。
「壬生はここに。村雨とともちゃん、雨紋は向こうへ行く。いいな」
応える声も最後まで聞かない内に、龍麻は先陣を切って黒い船に飛び移っていた。後に村雨、伊周、雨紋の順で続く。
「アタシの力、とくと味わいなさい!」
「死にてぇ奴はどいつだ?」
二人が手にした札が同時に空を切った。
刃と化した風に切り裂かれ、甲板にいた男達が苦悶の声を上げて崩れ落ちる。完全に龍麻達が先手を打った形で、戦闘は開始された。
最初に降り立った位置で背中を合わせ、村雨と伊周が援護と船の守護を兼ねて術を放つ。
龍麻は雨紋と共に前へ出た。抜き放たれたサーベルが鈍い光を放つ。
「破ッ!」
ほぼ一太刀で確実に相手の命を奪う龍麻の動きは、他の面々と違って荒さを含むものではない。寧ろ、見る者の目を惹き付ける様な感すらある。
「派手にいくぜッ!」
その隣で、雨紋が振るうのは槍。
彼に呼ばれたかの様に、晴れていた空に雲がわき始めている。振るう槍に雷を纏わせることの出来る雨紋は、いつからか『雷神』と呼ばれるようになっていた。
雷を呼び寄せるのもまた、その性か。
「龍麻サン!」
雨紋の声に反応した龍麻が、背後から斬りかかってきた相手を逆に切り伏せる。
幾人かを船に残してきた龍麻側と違い、後から後から海賊達が斬りかかってくる。そもそもの規模自体が違いすぎるのであろうか。それでも遜色なく戦う龍麻は、さながら戦神の様である。
畏怖の念を込めて呼ばれる、『黒龍』がそこにいた。
物音が絶えた。
剣を握りしめたまま、京一は部屋の中央に立ち尽くしていた。
龍麻達の仲間でも何でもない、寧ろ敵である京一は、ここから動く事が出来ないのである。龍麻は自由にしろと言ったが、京一は捕虜として縛られていて当然なのだ。それが、縄を解かれただけでなく武器まで手元に戻された。
京一を警戒すべき龍麻は、無防備に背を向けて去って行った。
どうして、立場を越えてああも簡単に人を信じる事が出来るのか。
最も信頼できるであろう重臣達を信用できない京一には、それが驚きでもあった。
「俺は――」
どうするべきなのか。
幾度目かの自問の後、京一は剣を机の上に置いた。
「――――」
京一を軍人だと、そう知らしめる証の役割も果たす上着を、脱ぎ捨てる。
床に落としたそれにはもう見向きもせず、京一は剣を掴むと駆け出した。
「お前――ッ!」
「るせェ! どきやがれッ」
行く手に立ちふさがる男を押しのけて、京一は甲板に出た。途端に鼻をつく血臭に眉をしかめながらも、足は止めない。
驚いた様な壬生の顔が見えたが、それも無視した。
ただ一人の姿を探して、血に濡れた甲板へと飛び移る。
「アンタ――」
「何のつもりだ?」
流石に村雨達に遮られては無理矢理通る事は出来そうになく、京一は仕方なく足を止めた。だが、その視線は忙しく甲板を彷徨って龍麻の姿を探している。
「悪いが、今はお前らに付き合ってる暇はねェんだよ。どいてくれ」
「九角の野郎の首でも取って手柄立てるつもりかい?」
目をすぅ、と細めた村雨にしかし、京一はその問いかけを一蹴することで答えた。
「んなモン今取ったってどうしようもねェだろうが。俺はただ……あいつを信用してェだけだ。あいつが、俺を信用してコイツを返してくれたみたいにな」
それを示すとすれば、共に戦う事が最も近道な様に京一には思えた。他の方法を、今は考えられない。
村雨が無言で身体を避け、京一は剣を抜き放って甲板を駆けた。襲いかかってくる男達を切り伏せながら、龍麻の背中へと滑り込む。
「京一!?」
振り向き、驚きに目を見開いた龍麻に、京一はにやりと笑いかけた。出会った時とは違い、気を抜けば命がない状況だというのに不思議と恐怖感はない。生まれてくるのは大丈夫だという確信のみ。
「俺、一応軍人なんだけど?」
海賊を倒すのが仕事。
それが単なる理由付けに過ぎないと自分でわかっていたけれども、京一は敢えてそう言った。でないと、龍麻が気にすると、そう思ったからだ。
「そーいう事にしといてくれよ。目立つから上着おいて来たけどな」
敵をなぎ倒しつつ京一がそう言うと、龍麻はあからさまにほっとした様な顔になった。しかしすぐに顔を引き締め、サーベルを振るう。背後を気にする必要がなくなった分、その動きは格段に滑らかになっていた。
「あんな事言ったけど、本当にお前が逃げようとしたらどうしようかって思ってた」
京一がそうする為には、龍麻の船を占領せねばならない。人数で見れば圧倒的に不利だとは言え、京一ならその気になればやってのけてしまうだろう。そうなれば少なからず血は流れるし、龍麻は本気で京一と殺し合わねばならなくなる。
京一も龍麻も、既にそんな事を望まなくなっていた。
「わざわざてめェの命無駄にする程馬鹿じゃねェよ」
龍麻が血を好む人間でないことは、初めて会った時から何となくわかっていた。血を好む人間は独特の臭いを撒き散らしているが、龍麻にはそれがない。それどころか清浄な空気を保っているのだ。一人も手に掛けたことがないなど、あり得ない場所にいながら。
「それに、そんな事したらきっと誰も助からねェだろうしな」
辺りを血に染めながら、しかし己は血に染まる事なく。
一通り敵を一掃した京一の耳に、恐怖に彩られた悲鳴が届いたのはその時だった。
荒くれ者にはおよそ似つかわしくない、悲鳴。
「――九角ッ!」
甲板に上がってきて早々に殺戮を開始した男と、その周囲に散った五人の側近達を認め、龍麻は表情を硬くした。明らかにただ者ではない空気を纏っているのが嫌でも分かる。
龍麻が踏み出すのよりも一瞬早く、京一は目標を彼らに定めていた。
これ以上、無駄な血が流れるのは京一の望む所でもない。
「てめェらは退けッ!!」
京一が切り込み、それを援護する形で二種類の札がそれぞれに風と冷気を巻き起こした。
ギン、と鈍い音を立てて京一のそれと鬼面の男の持つサーベルが噛み合う。
同時に飛び退いた二人の間に、龍麻が立った。長い髪を高い位置で結わえた男が、ゆったりとした足取りで前へ進み出てくる。
担いだ長剣を、引き抜いた。
「誰かと思えば『黒龍』か」
「俺だと知らずに仕掛けてきた訳じゃないだろう」
サーベルを構え、龍麻は一度瞼を下ろした。
誰にも手出し出来ない空間が、出来上がっていた。
先に出たのは、意外にも九角であった。力では負けると踏んだ龍麻は、真っ向から刃を受け止めようとはせずに身を躱した。踏み込んで繰り出した一撃を、難なく防がれて飛び下がる。
追って軌跡を描いた長剣が、僅かに龍麻の肩口を切り裂いた。
「随分と使いにくそうだな?」
余裕の笑みを浮かべる九角の言葉を黙殺し、龍麻はサーベルを構え直す。
互いに一歩も退くことなく繰り返される剣戟は、やがて片方へ大きく傾き始めた。
「龍麻!」
京一の叫びと、九角が大きく吹き飛ばされるのとはほぼ同時だった。
サーベルはいつの間にか甲板に突き立てられている。
傷は圧倒的に龍麻の方が多かったが、勝負を制したのは彼であった。
「腕が落ちたんじゃないか? 九角」
「は! でかい口叩いてんじゃねェよお坊ちゃんが」
「迷いがあった」
注意して見ても分からない程微かに、九角の顔が強張った。しかし上半身を起こし、長剣を支えに膝をつく。
龍麻は再びサーベルを手にした。いつでも攻撃に転じられる様、隙なく構える。
「……やめて!」
不意に発せられた涼やかな声と共に九角の前へ身を投げ出したのは、長い黒髪の美少女であった。仕立ての良い上品な衣装が血に汚れるのも構わず、龍麻へと跪く。祈りの形に合わせられた手は、恐れの為か小刻みに震えていた。
頬に一筋、涙が伝う。
「この人を、殺さないで」
海賊船にいるにしては、少女は綺麗過ぎた。
見るからに上流貴族の娘であろう少女は、同類の中でも最も残虐だと言われる九角の船に居て尚、汚れを知らぬ瞳をしている。
捕らえられた女は、例外なく男達の慰み者となるのが常であるにも関わらず、だ。
「葵……!」
九角がその腕を掴み、乱暴に後ろへ下がらせた。一見邪険に扱ったとしか思えないそれが、彼女を護る為にしたのだと、龍麻には分かってしまった。
女に護られ、尚かつ命乞いをされるなど、屈辱にしかならないというのに。
「奪ってきた女じゃないのか?」
「えぇ。私はこの人に奪われました。……でも」
九角は彼女を側においたと、そういう事なのだろう。
震えていても、少女の声には凛とした響きがある。ただ護られているだけの、無力な娘ではないという事か。
「連れて行け。俺にはもう力はない」
素っ気なく言い放った九角だったが、それが叶えられる事は幸運にもなかった。
「海賊、やめたらどうだ?」
後ろから、いとも容易く投げられた言葉。
九角が、目を丸くしてしまったのも無理はないと言えよう。
「このオネーチャン連れて、どっかで暮らせばいいじゃねェか。……惚れてんだろ?」
「あ、それいい」
ぽん、と手を打って京一の言葉に真っ先に同意を示したのは龍麻であった。望んで海賊になった訳ではないというのも、すんなりと頷けた要因であっただろう。
「東に行け。ケイロンなら、きっと誰も邪魔はしないよ」
「ふざけた事を――」
「護りたいんだろ、その人」
言い切って、龍麻は九角に背を向けた。
「撤収する!」
男達が次々と船へ引き上げ、最後に龍麻が向こうへ飛び移るまで、九角は長剣を握りしめたままであった。
それが振るわれる事は、なかったけれども。
その後彼らがどこへ行ったのか、その行方が知れる事はない。
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