その時、京一にはいやに時間の流れがゆっくりに感じられた。轟々と派手な音をたてる火炎も、崩れゆく建物も、すべてがゆっくりとまるで夢の中の出来事のように、現実感を欠いていた。いや、本当はこんなことは現実ではないと否定したがっていただけだと後になってはっきりと自覚した。知り合って、いい友人になれそうだった少女が実は自分の大切な仲間を罠にかけて実験材料にする手助けをしたなど。しかも、その相手が目の前で死んでゆくなど。
「紗夜ちゃん……ッ!」
炎に隔てられた彼女の元に駆け出そうとした京一の鳩尾に、強烈な膝蹴りが入った。思わず呼吸すら危うくなり、その場に膝をついた京一の耳に届いたのは、蹴りを入れた張本人の声だった。
「阿呆。お前まで死ぬつもりか?」
いつもと変わらない、ごく静かな声で。見上げた京一の視界に広がったのは、声と同じく全くいつもと変わらない飄々とした龍麻の顔だった。
「たつ……」
「とにかく行くぞ。こんなトコでグズグズしてたら俺たちまで巻き添えだ」
そう言って龍麻は仲間に声をかけた後、京一の襟首をつかんで引きずるようにして燃え盛る廃屋を後にした。
地下室で巻き起こった炎はやわな廃屋を貪欲に呑み込んでいってようで、少し離れた公園で一息ついた京一たちにもしっかり黒煙が確認できた。紗夜たちの後ろには壁しかなかった。そして彼らの前にはどうしようもないほど絶望的な炎の壁が横たわっていた。奇跡でも起こらない限り、決して助かることはないだろう。
「龍麻……」
傍らに立つ男の方に視線をやって、京一は思わず眉をひそめた。龍麻はやはり先ほどと変わらない静かな表情でポケットから煙草を取り出して、慣れた仕草で火をつけていた。そして、ゆっくりと吸ったのち、ふう、と長い息と共に煙を吐き出した。
「馬鹿な女だ」
「何?」
訊き返したが、龍麻はそれ以上口を開こうとはしなかった。その瞳には悲しみや怒りや憎しみや、そんな強い感情は欠片も見えず、だから京一だけでなくその場にいた全員が複雑なため息をついたのがわかった。やはり「龍麻だから」大丈夫だった、という安堵が半分。所詮「俺様」の龍麻が誰かを特別に受け容れることなどありえないのだという失望が半分。
「じゃあな」
そう言って歩き出す龍麻の後を京一は慌てて追った。肩を並べて歩く間も龍麻は一向に気負う風もなく、ただ静かに帰途についた。なにかせめて彼女を悼む言葉のひとつでも聞けるのではないか、という京一のかすかな希望は叶えられることもなく、気づけばいつも別れる曲がり角に来ていた。
少なくとも京一は龍麻が彼女のことを特別に意識しているのだと思っていた。それは、決して大げさなものではなかったが、二人でデートしていた時に見せた(尾けていたことはもちろん秘密であるが)ごくわずかだが空気の違う優しい笑顔や、彼女が自分の過去を告白したときに見せた苛烈でそして哀しみを宿した眼だとか。自分たちには決して見せないそういった表情を向けられていた彼女が正直羨ましく、同時に龍麻にとって安らぎの場所ができるならばそれは喜ばしいことだと思っていた。
だが、この平静ぶりはどうだろう。どこまでも強いその顔の下にどこか脆く崩れるような弱さを感じ取ったのは、京一の独りよがりな思い込みだったのだろうか。自問したところで答えが出るはずもなかったが、うつむいたまま考え込む京一の耳に、やがて静かな声が届いた。
「んじゃな」
顔を上げると、龍麻は既に踵を返していた。ひらひらと手を振るその後ろ姿も声もすべてが平静で、だが京一は本能的に何かを感じてその腕をつかんだ。そして、京一は瞬間的に自分のとった行動を深く後悔した。
「んだよ…ッ」
険悪な声とは裏腹に、龍麻の眼には哀しみとも憎悪とも違う、言いようのないどうしようもなく空虚な光が浮かんでいた。多分、龍麻の奥底にある無防備な生の感情を見たのはそれが初めてだったろうと思った。時に気に障るほど余裕綽々で、人をせせら笑うことが特技なんじゃないかと思うくらい根性の捻じ曲がった、それでもどこまでも強い人間だと思っていた。だが、そんな人間は存在しないのだ。当たり前のことだが。弱さを抱かない人間など存在しない。どこまでも強く見えるのはそれを必死に押し隠しているということなのだ。なぜ?自分のプライドの為か、仲間に余計な心配をかけない為か。
前者9割後者1割、と京一は内心で結論付けた。
「離せ」
眼だけは空虚なくせに、きつい声で言われたその言葉に反射的に否定の返事を返したのは何故だったか。後々まで本人は思い悩むのだが、要するに既にこの段階でどっぷり惚れ込んでいたというのが大方の見解である。
「イヤだ」
「…何言ってやがんだこのサル?!」
「誰がサルだ!」
「うっせぇ!いいから離しやがれっつってんだよ!」
「あのなぁ。意地張るのも大概にしろよッ!」
「てめぇにゃ関係ねーだろーが!」
「関係ねェってこたねェだろ?!」
「関係ねぇもんはねぇだろうが。赤の他人がゴチャゴチャ抜かして土足で人の内面踏み荒らすんじゃねぇ!」
よくよく考えてみれば、この時の龍麻は相当普通でない精神状態にあったわけで、容赦のない言動も致し方なかったと後になって客観的に判断してみれば(考えようによっては)仕方なかったとも思った。が、当の京一自身も割と余裕のない状態だったわけで、おまけに自分の龍麻に対する感情が微妙に今までと異なるものに変化しつつあるという自覚もあったところへもってきて「関係ない」だの「赤の他人」だのといった爆弾キーワード連続投下によって、なけなしの理性というか、ギリギリのところで京一の衝動を抑えていた「何か」が弾けとんだ。
「関係ねェだと?」
京一の声の質が変わったことを感じたのか、龍麻の身体が一瞬びくりと強ばった。その隙をついて両腕をつかみ、身体ごと壁に押し付けて間近に目を合わせる。
「ああ」
それでも変わらぬきつい声で返す龍麻の唇に京一は自分のそれを重ねた。龍麻の眼が驚きに見開かれる。もがいて逃れようとするのを腕に容赦のない力をこめて制し、貪るような深いキスをした。三日間に渡る監禁でひび割れた唇とやわらかな舌の感触が対照的で、ひどく艶かしかった。
「ん……」
洩れる息が熱い。やがて、抵抗が止んでその表情を見ようと眼を開き、わずかに両手の力を緩めた京一はきっちり二秒後、轟音と共に向かいの壁に激突した。龍麻の場合、戦闘中技を出す場合にもあまりしゃべらない。敵に対する罵詈雑言なら際限なく機関銃一斉掃射のようにまくし立てるが、実際に技を放つ時に気合を入れたりしない。それでもわずかに掛け声のようなものは出すのだが、例外がある。そして、今現在京一が食らったのは「八雲」であり無言のままその技が放たれたということはつまり、会心の一撃(クリティカルヒット)、というヤツである。
―――結果。見事に路上に轟沈した京一は二時間ほどその場に放置され、通行人に発見されて警察に通報されかけた。その後、正気に返って己が行動を反芻した京一は、まず赤くなり、次いでこれからのことに思いを巡らせ、真っ青になりつつ帰途についたのだった。
翌日。学校を休みたいような、しかし今日行かなかった所で対峙しなければならない問題は消えてくれるわけではないと諦め混じりのため息をつきつつ教室にやってきた京一を迎えたのは、予想を上回る見事な罵倒だった。目線の先には、昨日あんなこと(紗夜の一件の方)があったとは思われぬほど平静な龍麻がいた。
「よ、よォ、ひーちゃ…」
「寄るな変態」
一瞬、京一の耳がその言葉を受け容れるのを拒否したのも無理はなかろう。
「………ななな何だとォ?!」
「変態は変態だろ」
「誰が変態だッ!!!」
「男を襲うヤツのどこが変態じゃないっていうんだ。お、醍醐、おまえも近づかない方がいいぞ。貞操の危機だ」
「て、ていそう?!」
「誰が醍醐なんざ襲うかッ!気色悪ィ!!」
目を白黒させる醍醐をよそに、想像するだに鳥肌がたった京一に龍麻はやれやれと肩をすくめた。
「今更取り繕ってもムダだぞ、男好きめ」
「ちっがぁーう!!」
クラスメートの痛いほどの好奇と戸惑いの視線に刺し貫かれながら絶叫した京一に、龍麻はやや首を傾げる。
「醍醐は好みじゃないのか。変態のクセに贅沢な」
「だーかーら、誰が変態だッ!俺は別に男が好きなわけじゃねェッ!!」
「じゃあ、昨日のアレは何だ。冗談か?」
龍麻の眼差しが、一瞬にして鋭くなる。本格的怒りモード一歩手前である。
「い、いやッアレは……」
「昨日のアレって?何かあったの?」
しどろもどろに口篭もる京一のわきから小蒔が口を挟んだ。そして、俺様が爆弾を投下する。
「こいつに襲われてキスされた」
「!!!!!」
朝の3−C教室内、龍麻をのぞくすべての人間が残らず驚愕の表情になった。
「…うっそー、京一くんってそっちのヒトだったのー?!」
「でもそういえばずっと彼女いないもんねー」
と黄色い声を上げている女子数名。
「マジかよ蓬莱寺…」
「ケンカのし過ぎでついに脳細胞をやられたか…」
憐れみをこめて呟く男連中多数。
「京一、それホント?」
小蒔の怪訝そうな問いかけに、答えられるはずもない京一だった。
「俺がそんな気色悪いウソつくかっての。こいつはまぎれもなく変態だ」
「で、でも、海外では同性愛者同士の結婚を認めている国もあるし、変態っていう言葉はよくないと思うわ」
聖女が混乱したままよくわからないフォローを入れている。
「ここは日本だ」
「それはそうだけれど…でも、一概に変態だと決めつけるのはよくないわ」
「だから誰が変態だーッ!!」
「おまえ」
「俺は別にホモじゃねェッ!」
「じゃ何だ?」
怒りのこもった龍麻の視線が痛かったが、同時にその鋭すぎる漆黒の瞳に思わず見惚れた自分を自覚し、京一は白旗を上げた。そして、ヤケ気味に開き直る。
「お前が好きなだけだ!!文句あっか?!」
きゃーと再び後ろで黄色い声が上がり、男どもが絶句した。
「惚れちまったもんはしょうがねェだろ!」
「京一」
目を上げると、龍麻が窓を開けていた。それから京一の側に歩み寄ってくる。
「何だ?」
「…いっぺんアタマ冷やしてこいッ!!」
怒号と共に龍麻の蹴りが炸裂し、京一は窓から飛んでいった。
「……龍麻、ここは3階だぞ?」
「下にプールあるから大丈夫だろ」
平然と呟く俺様に、教室の皆が内心で京一に合掌した。
京一が無事だったのか、そして、二人の関係がどう進展するのか。それは、まだ誰も知らない。
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