□ハッピーデイズ:プロローグ□



僕は大きなお屋敷の前に立って、カメラ付きのインターホンを押すのをためらっていた。

病気になった母の入院費を出してくださった方、緋勇さんのお屋敷だ。

設備のよさを誇る病院の個室に移された母は順調に回復の兆しを見せている。

何て言おう・・・お礼の言葉が見つからなくて僕はもう何十分もこの門の前でうろうろしているのだ。

すると。

「なにやってんだよ?」

と突然後ろから声をかけられて僕は飛び上がった。

振り返って見ると、学生服に身を包んだ男が立っていた。

漆黒の髪。細い顎のライン。意志の強そうな目には不信がっている様子がない。

「うちになんか用?」

「うち?も、もしかして緋勇さん?」

「そうだけど・・・お前は?」

「ぼ、僕は壬生紅葉。母がお世話になってる者で・・・今日は緋勇さんにお礼にうかがいました」

「ふうん・・・親父に用なんだな。来いよ」

と言ってインターホンにカードを差し込むと、門が自動的に開き、

ずんずんと進んで行く男の後を慌てて追う。

僕はなぜか、目の前の、もしかしたら年下かもしれない男に横柄な態度を取られても気にならなかった。
それが恩人の息子だからではなく、不遜な態度が逆に魅力であるような気がした。

門から遠い屋敷にたどり着くと、中から使用人らしき人が数人出てきてドアの前に整列し、

「龍麻様お帰りなさいませ〜」

と一斉にお辞儀をする。龍麻と呼ばれた目の前の男はそれを聞いてるんだか聞いてないんだか

まったく無視して屋敷の中に入って行く。

僕も気後れしつつ彼らの前を通り過ぎて屋敷に入った。

高い吹き抜け、広くて長い廊下。いくつもの部屋がある。

きょろきょろ見回してしまう僕に、前を歩く龍麻が口を開いた。

「ここで待ってろ。いま呼んでくるから」

と言うと龍麻は踵を返してどこかに行ってしまった。

僕は示された部屋におずおずと入ってみると、ひときわ立派な調度品が待ち構えていて、

応接間なんだとわかった。かわいいメイド服を着た女の人が来て僕をソファに座らせると

すぐに紅茶が運ばれてきた。することがなくて、僕は紅茶をすぐ飲み干してしまった。

するとすぐにまた紅茶が運ばれる。また飲み干して、また運ばれてくる。

困って手の指などを見つめていると、ドアが開いてがっしりとした男の人が入ってきた。

太っているわけではないのに、貫禄がある。すぐにこの屋敷の主だとわかった。

立ち上がって挨拶をする僕をニコニコと見つめる。

僕が母のお礼を言うのにも尊大な様子はなく、立派な紳士だと思った。

彼は他愛ない世間話の中で、ふと、うちで働かないか、と言った。

「もちろん住み込みで。強制ではないんだが・・・できれば承諾して欲しいんだよ。

 人手は足りてるんだが、龍麻の歳に近いものがいなくてね・・・君なら同じ歳だし・・・」

この申し出に、僕は何より龍麻が同じ歳だということに驚いた。

「それに、君のお母さんを援助することは僕が好きでやってるんだからいいんだが、

 そのことで君が気兼ねしてるんじゃないかと思ってね。見たところ君はいろいろと

 背負い込むようなタイプに見えるし・・・うちで働きながら学校に行ってくれれば、

 君としても、もちろんうちとしても割り切れるんじゃないか、と思ったんだが」

そうなのだ。僕はずっと、金銭面で母の世話をしてくれる緋勇氏に感謝する一方、

それにどうやって応えればいいのか、何もできない自分に苛立ってもいたのだ。

だからこの申し出は僕にとって願ったり叶ったりであった。

僕がそれを一も二もなく承諾すると、彼はとても喜んで、屋敷中の人間を呼び付けた。

先ほどドアの前で挨拶した人と、紅茶を運んできた人、あわせて7人の使用人らしき人が並んだ。

意外と少なく感じたが、いればいいってものでもないのだろう。

彼らに僕を紹介する際に、働いてもらうが、客人扱いするように、と言ってくれたのも

緋勇さんの優しい心遣いだと思った。

そこへ、ドアが開いて龍麻が顔を出す。

ここで働いてもらうことになったから、と言う父親の言葉に龍麻はちょっと驚いた顔をしたが

すぐににっこり笑って、よろしくな、と言った。

さっきの不遜な態度からは想像できない人懐っこい笑顔に僕は一瞬見とれてしまって、慌てて挨拶する。


その日のうちに、メイドさんたちの手によって引越しが完了し、僕も働く身となった。


つづく


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