黒の深淵に静かな音が木霊する。
まるで溜まった水の中に水滴が一滴一滴零れて落ちていくような音だった。
振り返ってみても何もないその空間に。
またひとつ。
かなりの間隔をあけて広がるその音は一体何を意味するものなのか。
答えられるものなどいない……。
第拾弐話 魔人
「や、だからよ。たまには和食も食いたいなァ……と」
恐る恐るといった風に言った言葉を再度繰り返すのは俺がにっこり笑って聞き返したからだ。躊躇うくらいなら言わなければいいのにと思うが、思ったことをすぐ口にしてしまうのは今にはじまったことではなかった。
「ここは旅館じゃない。そういうのが欲しいなら他を当たれ」
う、と言葉につまった奴を見てふんと鼻を鳴らしてサラダを口に放り込んだ。
本当に何を突然言い出すのだか。蓬莱寺の言動には前後の脈絡がない。
日がようやく昇りだしたこの時間に食べているものはもちろん朝食だ。作ったのは阿呆な事を聞いている目の前の奴である。
今朝の献立はサラダにベーコンエッグにトーストにコーヒー。朝食の他に夕食も良く作っているが、大雑把に作られていて見た目は焦げていたりするが味は悪くない。器用な奴だ。
夏の一件から毎日のようにここに転がり込むようになった奴の飯まで面倒は見きれないため、居るときは作るように言い渡した。もちろん反論などは却下だ。自分でも申し訳ないという気持ちが少しはあるのか、作る御飯は二人前であった。
そして恐らく、言いたいのは俺に飯を作れということなのだろう。
蓬莱寺がもう来ないだろうと判断した時にたまに自炊しているときがあるのだが、煮物を作り置きしたときに目敏い奴に見つかってしまったのだ。それを思い出したのだろう。
自分の分ですら作るのが面倒くさいのに、他人のものまで作る気にはなれない。
「女でもナンパして作ってもらえばいいんじゃないのか?」
トーストを囓りつつ首を傾げて訊ねる。今更な会話だが、それならこんなところに居るなという気持ちも多少入っていた。
「俺はここで食いてェの」
「自分で作れ?」
にっこり即答してやると机に突っ伏してしまった。
大体何が悲しくて野郎のために食事なんぞ作らなくちゃいけないんだ。蓬莱寺のは自業自得としても、そんな労力は裂く気にはなれなかった。
まだぶつぶつ言っている奴を後目にさっさと皿を空にする。
今日は朝早くから不動巡りが待っている。もちろん蓬莱寺は俺がさぼると踏んで泊まり込んで来たのだ。確かに行くと言われた段階で嫌だと言ってみたのだがあっさり却下されたので待ち合わせにいかなければいいかとも思っていたのだが。こういうところだけは用意周到な奴だ。
いまだ眠気の取れない頭を振って学ランの上着に腕を通す。衣替えの季節となって久々の感触になんとなく笑みが零れた。
待ち合わせで合流した醍醐と地元の案内役を買って出た紫暮と共に目黒不動に向かう。あっさり封印して学校に戻ることになったが、男連中のみで来たのは良かったのか悪かったのか。
学校につくと、新聞部の遠野が息せき切って駆け込んできた。どうやら美里が誘拐されたらしい。一緒にいたマリア先生も連れて行かれたそうだ。
俺にとっては関わるな、と言いたいところなのだが、新聞部に連れて行かれた挙げ句に資料探しに駆り出され、気が付けばあやしい学園の前にいる。
本当になんで俺はここにいるんだろうな……。
遠くを見つめていたら、いきなりデカブツに正面か裏口かと聞かれる。
そんなもの正面からいっても怪しまれるだけなので裏口と答えてみると、すんなり聞き入れられた。それでいいのか?
とりあえず裏を回ってみたが、正面以外に入り口らしいところはなかった。学校というよりは何か異様なものを感じる。
正面入り口にもどると、また天野というルポライターがいて美里が攫われたことを話すと取材のアシスタントとして入るよう取りはからってくれた。変な所に取材を申し込んだものだと関心する。
入ってすぐに別行動をとると、人気のない校内で一人の少女に出会した。小さな黒猫を手にした女の子が、美里は人体実験に使われていると言ったため、俄然周りが厳しい気配を帯びる。以前俺も同じように捕らわれたことがあるせいだろう。
階段を駆け下りて一番最後に部屋に入ると、中央のガラスの向こうで美里が液体に入れられているのが見えた。悪趣味な奴らだ。
その前にいる四人がこちらに向かって来るのを見て、戦闘態勢に入った。
そこには先程一緒についてきていたマリィと名乗った少女も加わる。どうやら炎を扱う力を持っているらしいが、打たれ弱いのは見て取れるので敵を近づけないためにもデカブツに壁になってもらうよう指示した。眼前にでかい障害物があるため、二手に分かれる形になったが、右方向から向かった醍醐は奥にいた女によって魅了を受けていた。使えない奴だ……。
こちらが向かった左方向には首謀者とおぼしき奴が向かってきたが、大した攻撃ではなくあっさり見切る。後方からは少女の気丈な声によって繰り出される火が敵を倒しているのが聞こえた。案外強いらしい。
そうこうしているうちに短い時間でねじ伏せると、最後に倒したはずの首謀者の姿は消え失せていた。足の速い奴だ。
ガラスを叩く少女の声に桜井の声が重なったが、甲高い破砕音と共に謎の液体の中に入れられていた美里が倒れ込んでくる。身体の大きい醍醐がそれを受け止めた。
意識ははっきりしているようで、いつもの制服に着替えるとマリア先生の事を心配していた。蓬莱寺達もそれは気になるのか、体調の万全でない美里を桜井と共に残して牢屋のあるという場所に向かうことになる。
途中この場所が学校ではなく牢獄だと蓬莱寺が言っていたが、そんなもの入る前から判っていたことだろう。
「いずれにせよ、このまま放っとくわけにもいかねェな」
正義感が強い奴らしい言葉だった。俺としてはルポライターが嗅ぎつけていた時点でこの行状が世間に知れ渡るのは時間の問題と思ったので気のない返事をする。
美里が捕まっていたという場所にはすでにマリア先生の姿はなかった。先程逃げたやつが連れていったのかもしれないということになって、美里と桜井と合流して追うことになる。
マリィという少女も本来は俺達と同じ年であるらしいが、研究のお陰で成長を止められていたらしい。そんな環境の中では友達の意味も判っていなかったのだろう、美里や桜井に言われて戸惑っている。こちらに向けた瞳が揺らぐのを見て溜息をついた。一緒に連れて行くということに頷いて、屋上にあるらしいヘリポートに向かうことにする。
屋上に向かう通路では、案の定首謀者と共にマリア先生が捕まって居た。爆薬をしかけてこの学院もろとも証拠隠滅を計るつもりらしい。しかしマリア先生がマリィの炎によって助け出されると、またもや鬼道衆が現れた。雷角と名乗るそいつは首謀者をあっというまに鬼に変えていく。
今度の鬼は随分足が速いらしい。遠くに居たと思ったら近くにやってきて、それでも遠距離攻撃をして逃げていく。毒を食らって一瞬うめくと、横から動揺した気配が伝わってきた。何をしているんだかと思ったが、振り返らずに結跏趺坐を使う。桜井は弓の技がなかなか効かなくて苦戦していた。今回めざましい活躍をしていたのは少女だったのが印象的だろう。『出来損ない』と言われていたがそれは彼女の心が無意識に力を抑えていたのだろう、それは爆発的な火力であった。後方からの微量な援護であってもかなり助力になる。
素早く蓬莱寺が木刀を振るうと最後に居た雷角は倒れた。
それだけならまだしも、先程言っていた学院の爆破音が遠くからしてくる。ここは屋上なので一番危険だ。
慌てて学園の外に出ると野次馬が集まる前に近くの公園まで避難する。
そこでまずマリア先生が助けてくれてありがとうと言ってきた。それを受けるべきは醍醐や蓬莱寺達なので俺は無言だった。
家を失ったマリィには美里がお姉さんになると言っている。いきなり家族が増えて美里の両親は大丈夫なのだろうか……。本人が大丈夫と言っているのでまあ大丈夫なのだろう。余りその辺は追求しないことにする。
慌ただしい一日だった。
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