一瞬、風が吹いたような気がした。
何もない暗闇の中でただそれだけが感じられた。
ふと見上げると何かの光跡が閃いた。
良く見ようと目を凝らしてもそれが現われたのは一瞬で。
あとはただただ、闇。
第参話 妖刀
教室がようやく放課後といった雰囲気に満ちる。
うららかな春の午後の授業なぞ身に入る訳がなく、眠っていたせいでHRが終了したことに気がつくのが少し遅れた。
ヤバいと身体を起こせば、もはや目に馴染んだ影は今だ自分の席から動かず醍醐と会話をしているようであった。
相も変わらぬ表情ではあったが、すでに諦めたのか適当な相槌を打っているように見える。何を話しているのかも気になったので近付いて会話に加わった。
すると緋勇は更に厭そうな気配を纏った。
もう随分と一緒にいるような気がするが、最初に見せた態度から全く変わっていないのに少し腹が立つ。毎回ラーメンでは流石にあれなので、桜の季節ということで花見に誘ってみることにする。進んでこういうことをしている自分にも変な気分を覚えないではなかったが。
しかし相手は一枚上手だった。
アン子も加わって大勢でついでに歓迎会も兼ねてしまおう!という素晴らしい提案に盛り上がっている皆の中で、控え目に、しかしはっきりと断わりを入れやがったのだ、コイツは。
誰もフォローを入れられない中、明るく、しかし強引に参加させることにする。思わず『俺に付き合え』とまで口走ってしまった。何やってるんだ俺。
参加が決まった方が大事なのかあっさり会話は違う方向へと向いてくれたので、気に留めるヤツはいなかったが、何だか自分が判らなくなってくる。
酒でも飲んでパッとしたい気分だったが、あれよあれよと言う間に教師引率という状態ににまでなってぐうの音も出ない。緋勇は酒に関しては頓着しないのか、飲めないのかはっきり判らなかったが、マリア先生が一緒に来るのには眉をしかめていた。
まさか裏密を呼ぶ話にまで発展するとは思わず、またそれでおかしな刀の話にまでなったのにはうんざりしたが、裏密本人は来ないということでほっとする。
ようやく帰るという段階になって集合時間まで決定したのは良いが、こういうことがあまり好きそうでない緋勇はバックレるんじゃないかと気付いた。とりあえず街に一緒に繰り出してそのまま引っ張って来ようかと思ったが、本人が頷いてさっさと身
を翻してしまったので引き止めることが出来なかった。
後姿を見つつ頭を掻く。
本当に何をやっているのだか自分でもよく判らない。
そこまでして野郎を引き止めたって楽しいことなんてないはずなのに、やっている事は正反対で。
「なんだかなぁ……」
ここ数日珍しくも団体行動をした後、やはり緋勇はあっけなく踵を返して去って行ってしまう。それを見届けた後、なんとなしに歌舞伎町に繰り出して、ナンパをしたり色々としてみたが燻ったまま晴れない気持ち。
気がつけば、中々合わせようとしないあの漆黒の瞳を思い出している。
醍醐と一戦を終えた後のヤツは妖しいほどの笑みを浮かべて振り返った。長い前髪で隠されている眼は、普段感情を映さず彩も見えないが、その時だけは確かに瞳に光が宿っていた。感情を読み取るまでには至らなかったが。
凛とした雰囲気のおかげか優等生のように見えて、実は腕っ節が滅法強いなんて詐欺にも近い。佐久間と戦った時に見た感じで強いとは思ったし、負けるとは思わなかったがこれほどとは。
蝙蝠相手にも物怖じしない突っ込み振りで見ているこちらが冷や冷やした。
当たり前のようにクラスに馴染んでしまったせいか、知っている事は多くはない。
ただの転校生だろうと考えてみても、色々知りたいと思ってしまうのは異常だと自分でも思う。
堂々回りな思考を抱きながら、気がつけば集合場所付近までやってきていた。
上げた視線の先に捉えるのは黒い人影。
声を掛けようとしたままの体勢で固まる。
桜を見上げている様は本当に幻のようで、いつその場から消えてもおかしくない位の危うさを漂わせていた。
感情を映さない瞳もまるで人形みたいである。
恐ろしい程現実離れした風景に足を踏み入れる勇気がなく立ち竦む。
そんな気配に気がつかなかったのか、醍醐がやってきて何事か声をかけた拍子に世界は元通り動き始める。思わず深い溜め息をついたら後ろからどつかれた。
「何しめっぽくなってるのよ、気色悪い」
「アン子、お前な……」
売り言葉に買い言葉で応酬すれば、あやうく時間に遅れかける。
恐る恐る近寄ってそれとなく気配を探っても先程の状態など欠片も見当たらず、いつもと変わらぬ呆れと諦めを含んだ態度に少しの違和感を感じた。
それでも気晴らしも兼ねての花見会を暗くするわけにも行かず、この際とばかりに莫迦をやってやる。周りの呆れての大笑いなんぞいつものことで、場が盛り上がれば問題ない。
それとなく緋勇の方を見てみれば、マリア先生に何か言われているようだった。
ふと通り過ぎた風が辺りのサクラを騒がせる。
咲き誇る桜の花びらが舞い散り、月の淡い光に照らされて更に美しさを増す。
そんな場を不粋な叫び声が切り裂いた。
行ってみれば人が血のついた刀を振り回している。気が狂ったとしか思えない所行。まさかアン子が言っていた事が本当になるとは。
流石に生身の人間を相手にするのは躊躇するかと思いきや、緋勇はまたしても真っ先に場に踏み込んでいく。刀を持つ男の狂気に狂わされたのか、はたまた桜の妖気のせいか、戦闘的な犬達も近寄ってくる。口から泡を吐きつつ来るところを見るとヤバい犬の類いだ。
必死に場を確保し、なるべく遠距離で倒せるよう距離を取りながら進むが、どうしても接近戦の緋勇と醍醐は危険に身を晒しがちになってしまう。
「うぐッ!」
うめき声と共に弾き飛ばされてがくりと膝を付いた緋勇の姿に焦りと苛立ちを感じる。もう少しこちらを頼ってくれてもバチは当たらないだろうにと、舌打ちをして近付く。
期せずして醍醐も来ていたらしく、突然その場に満ちた力。
「な、何だ?」
ふと、力が集中し爆発する瞬間が脳裏に閃いて消えた。
それは一瞬の出来事だったが、周りに集まっていた犬達があっさり倒れて数を減らしていたのには驚く。
「こりゃ、どういうカラクリだ?」
「そんなもの、どうでもいいからトドメを刺せ」
血のついた腕を上げ、指差すのは少し先に見える刀を持つ男。苦しいのか少し息継ぎして話す緋勇はいまだ膝をついたままだった。
「テメー瀕死のクセに偉そうに言うんじゃないッ!」
近寄って治療でもしてやろうと動こうとした身体を身振りだけで止める。
「俺は自力で回復できる。それより戦いを終わらせる事が先だろうが莫迦」
言われて頭が冷えた。確かに傷は決して軽くはなかったが、今ここで弱めた敵に時間を与えてはこちらが不利になるだけだ。指摘されたことは正論で、だからこそ尚更腹が立つ。
その怒りを木刀を握る手に強く力を入れて堪え、振りかぶった形でそのまま技を放つ。
「醍醐!」
叫んだ意図をいつもの友人はすぐさま理解し、僅かな時間差で攻撃と叩き込む。
刀に取り憑かれた男の狂気はそれによってあっけなく消え去っていったのだった。
倒れた男から刀を奪い取る。
「京一!」
「心配すんな。こんくれェの妖気でヤられる程やわじゃねェ」
心配性の大男の声に応えを返して刀を一振りし血を払う。
そんなものでこの刀が吸った血を取れるとは思わなかったが、納める鞘はなく、血を拭くようなものも持ってはいなかった。
妖し気に輝く刀身は手入れを十分されていなかったせいか曇りが所々目立っていて本物に見えなかったが、かといって抜き身の刃を街中で持ち歩いて警察に捕まらない保証はどこにもない。
「しゃあねェ」
捨ておいた袱紗を拾い上げ一動作で刀を納める。切れが鈍っているのか、破けることはなかった。
「……何だよ」
同じく無理矢理木刀を入れ込んで、それまでの動きをじっと見つめる視線に居心地の悪さを感じて尋ねる。
「いや。ただの莫迦じゃなかったんだな、と」
「バカ莫迦言うんじゃねェよ」
「誉めたんだが」
「ぜんっぜん誉めてねェ!」
ぶすくれて怒鳴り返してやると動かなかった表情が柔らかい微笑を刻んだ。
相手の突然の変化に対応し切れず戸惑う。
「面白いヤツだな、お前は」
「……やっぱり、誉めてねェ」
優しい印象から零れる言葉はやはり変わりなく、さらに脱力して文句をつけるが、先程よりも腹が立たないのは何故なのだろう。
その後すぐ情けないことだが、近付くパトカーの音に逃げ去る羽目になるやら、アン子の暴走を抑えなければならなくなるわ、散々だった。
最終的に街中で怪しまれぬよう各自解散という形を取った。
折角拝めた笑みを少ししか見れなかったことが余程残念だったのか、気がつかぬうちに緋勇の後を付けている。皆と明るい街に戻って来た時はすでに何の表情も浮かべていなかったので、先程のは幻覚を見させられたかと本気で悩む。
ふと気がつくと、たよりない明かりを灯す電柱の下で緋勇が体をこちらに向けて腕を組んで立ち止まっていた。
「下手な尾行だな」
「……最初から隠れてねェよ」
呆れたような、莫迦にしたような、恐らく後者の方が大きいであろう感情の込められた簡潔な台詞に、こちらも悪怯れず返す。実際尾行していたわけでもなく、隠れるつもりもなかったので一メートルもしない距離まで歩みを進める。
「こんな夜遅くに男の後を付いて歩く程暇だったのか。そうかそれは知らなかった」
「人を変態みたいに言うんじゃねぇッ。……ッて喧嘩したいんじゃなくてだな、その……」
色々言いたいことがあった。聞いてみたいことも。しかしいざ本人を目の前にすると何も言えなくなってしまった。昨日のコウモリの時に出た大技はもちろんだが、刀を前にして徒手空拳で飛び込んで勝算があったのかとか、はじめて一緒に戦った後に問い掛けられた言葉とか。一つ一つが独立した問題であるはずなのに、まとめて考えてしまっているためにどれから手をつけていいのかわからなくなっている。
いっそ洗いざらい話して教えてもらおうかとも思ったが、即座に却下する。そうしたらあの莫迦にした顔でさらに罵倒されるだろうと容易に想像がついたからだった。
しかし話し掛けた言葉は戻らない。何を言うべきなのか咄嗟に思い付かず口籠る。
珍しく言い淀んだせいか、緋勇が茶化さず先を言えと視線で促す。
「あ〜〜その、な。花見滅茶苦茶になっちまったから、改めて花見しようぜ、ってな」
口にしてみれば言いたいこととは全く別の事が飛び出してきて、自分でも驚く。恐る恐る様子を伺ってみれば、突然の言葉に目を見張っていた。そりゃあそうだろうと思う。けれど何故いきなりそんな事が浮かんだのか全く持って謎だったが、言ってみれば良い案ではないかと思った。結局花見の席は闖入者によって台無しにされてしまっていたし、酒もなかった。
「……酒がそんなに飲みたかったのか?」
最後の思考にかぶさるようにされた質問に、驚いて目を上げるとふんと小さく鼻を鳴らして『判りやすい奴』と呟いた。
「んだよ、お前は酒飲みたくねーのかよ?」
そんな良い子ちゃんばかりじゃないだろうと暗に込めて問い返せば、柔らかい微笑とはうって変わった妖しい笑みを浮かべる。
「酒は良いが、相伴の相手がお前じゃ役不足かな」
「言ったな? ぜってー酔い潰してみせるぜ」
こちらもニヤリと笑ってみせる。
結局、手近なコンビニで酒を買い込み、夜も深い公園に陣取った。時間のせいで誰もいない場所はしんと静まり返っており、桜の散る音すら聞こえてきそうであった。
色々聞こうと思ってはいたが、風に攫われる花びらを見つめる横顔を見つつ、言葉に困って酒をあおる始末。
ただそんな静寂は、緊張や気まずい空気などない居心地の良いもので、その雰囲気を壊すことは不粋に見えた。
光を宿さぬ深淵の闇は一体何を見ているのか。
暖かい風に攫われていく桜は通り過ぎて消えていく。
それが何故か悲しくて眉を潜める。
春はもう終わりに近付いていた。
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